我慢の正体
人は誰しも、言葉にならない重さを抱えながら生きている。
その正体を一言で表せといわれたとき、最も近いのは「蟠り(わだかまり)」という言葉だろう。
表面は穏やかにしていても、胸の奥に沈んで離れない。
忙しさに紛らわせても、いつか静けさの中でふいに浮かび上がってくる。
この蟠りとは、一体何なのだろう。
心の錆なのか、腐植なのか、それとも抜けない棘なのか。
そこに、ひとつの“人間らしさ”の核心を感じる。
心に溜まる錆という比喩
鉄が空気に触れ、水分と反応して錆びるように、
人の心もまた、日常の摩擦や湿った感情と触れ続けることで、知らず知らずのうちに錆を身にまとう。
それはすぐには見えない。
表面上は笑っているし、仕事も家庭も回っている。
しかし、ふとした瞬間、不必要に誰かの言葉に反応したり、
過去の小さな痛みが思い出されたりする。
錆は、一日でこびりつくものではない。
長い我慢の積み重ねが、心の奥に薄い膜を張りつづける。
そして気づいたときには、剥がすには痛みを伴うほどに厚くなっている。
心の錆とは、決して悪者ではない。
むしろ、生きてきた証そのものだ。
けれど、その錆を放置し続けると、
心身の動きは徐々に重く、ぎこちなくなってしまう。
または腐植——分解されず積み重ねられたもの
もうひとつの比喩、「腐植」。
腐植とは、森の地面に積もった落ち葉が分解されきらず、層となって堆積したもの。
湿りを帯び、押しつぶされ、黒く厚くなる。
人間の心にも似ている。
言えなかった言葉、飲み込んだ怒り、不満、理不尽、悔しさ。
これらは発散されなければ分解されず、深い層をつくる。
表面は平らに見えても、
その下には重い腐植が沈殿していることがある。
そして重さが限界に近づいたとき、
何かの拍子に表面が沈み、感情が溢れ出す。
周囲から見れば「突然怒った」「突然泣いた」ように見えるが、
本人にとっては突然ではない。
長年蓄積されてきた腐植が、やっと声を上げただけなのだ。
抜けない棘としての蟠り
棘は、痛みの象徴だ。
刺さった瞬間の痛みより、
抜けないまま時が経つほうが、よほど厄介である。
人間関係の中で受けた言葉の棘、
大切な人とのすれ違い、
自分の中にある後悔、
どうにもできなかったあの時の選択。
棘は、無理に抜こうとすると余計に痛む。
だから放置する。
しかし放置すれば、じわりじわりと存在を主張してくる。
棘とは、まだ処理されていない感情の“記憶”なのだ。
そして蟠りの正体とは——“我慢の塊”
錆、腐植、棘。
どの比喩も違う角度から同じ真実を指している。
そして、言葉に集約される。
「それは我慢の塊なのかもしれない」
そう、蟠りの正体とは、
長年蓄えてきた“我慢”である。
日本人は我慢の名人だ。
耐え、飲み込み、周りに合わせ、空気を読む。
その美徳は、時に誇るべき力となる。
しかし、過剰な我慢は心の自然な循環を止めてしまう。
我慢が限界を超えたとき、人は心のどこかに“滞り”をつくる。
それが蟠りだ。
では、この蟠りとどう向き合うか
解決の近道は、無理に取ろうとしないことだ。
錆は研ぎすぎれば地金を傷つける。
腐植は一気に除去できない。
棘は強引に抜けば血が出る。
だからこそ、こうする。
• 少し湿らせ、
• 少し緩ませ、
• 少し時間を置く。
そして、必要なときにだけそっと触れる。
触れても痛くなくなった頃、
錆は自然と落ち、腐植は土へと還り、棘は抜けている。
蟠りとは敵ではない。
自分を守るために、
自分を壊さないために、
心がとった“苦肉の防御”なのだ。
最後に、蟠りとは
「心も体も、人生も、守り抜いてきた歴史のかたまり」
なのだと思う。
その歴史を否定する必要はない。
ただ、そっと照らし、少しずつ風を通すこと。
それだけで、人は再び軽くなる。
そしてまた、前へ歩いていける。



