「真似をする国」としての日本をどう捉えるか
日本という国を見ていると、不思議な現象がある。
ある日突然、ひとつのモノや習慣や流行が爆発的に広まり、気がつくと街中が同じ色になっている。ファッションも、考え方も、教育観も、ビジネスのやり方も。「あれ?みんな同じ動きをしていないか?」と思う瞬間が多い。
“誰かが最初にやる。すると、その人が正しいことになる。”
この暗黙のルールが、驚くほど強固に存在している。
日本はなぜここまで“真似をする文化”なのか。
それは悪いことなのか。
それとも、見方によっては美徳でもあるのか。
この問いを深く見ていくと、人間心理と歴史が複雑に絡まり合っていることが見えてくる。
真似は日本の生存戦略でもあった
日本は長い歴史の中で、外から新しいものを取り入れてきた国だ。
仏教も文字も、建築も、政治制度も。
そのたびに「真似をしながら工夫し、自分たちのものとして昇華していく」というプロセスを繰り返してきた。
つまり、日本にとって「模倣」は劣等行為ではなく生き残るための武器だった。
ただ、現代になると、その武器が“過剰に発動”するようになってしまった。
横並びは安心の仕組みである
人間は本来、違うことには不安を覚える生き物だ。
まして島国という環境は、“同じ空気で生きる”ことが安全につながった。
だから日本では、
「違う=危険」
「同じ=安心」
という価値観が深く根づいてきた。
これが現代に残る横並び意識につながる。
• みんなと同じなら間違いではない。
• 同じなら叩かれない。
• 同じなら拒否されない。
こうして“真似をすること”が日本の安心の土台になっている。
「最初にやった人が正しい」と見なされる理由
面白いのは、誰もが横並びを求めているのに、
最初にやった人だけが特別扱いされるところだ。
これは矛盾しているように見えて、実は理にかなっている。
最初にやった人は“リスクをとった人”だ。
日本では表立って評価されにくいが、
内心では「勇気があった」「道を切り開いた」と認識されている。
だから一度その人がやると、
「これは安全だ」「これは正しいんだ」と判断し、次々と同じことを始める。
結果、
「最初にやった人=正しい人」
という神話ができあがる。
個性がないのではなく、“出しにくい”だけ
しばしば「日本人は個性がない」と言われるが、本当はそうではない。
個性がないのではなく、個性を出すための心理コストが高すぎるのだ。
出したら叩かれるかもしれない。
浮くかもしれない。
間違っていたら恥をかく。
そんな恐れの中で、真似の方が安全になる。
つまり、日本社会は「勇気に対しての見返り」があまりにも少ない。
だから多くの人が、安全な真似を選択する。
だからこそ、個が動き出すと空気が変わる
ただし、横並び社会だからこそ、
誰か一人の小さな動きが、空気を一気に変えるという面もある。
歴史的にも、日本では「個人の行動が社会全体を動かす」という現象が何度も起きている。
つまり、横並び文化は悪ではない。
むしろ、
「一人の行動が社会に広がりやすい」という特徴も持っている。
裏返せば、
個人の一歩が社会を変えるポテンシャルは、他の国に比べても圧倒的に大きい。
真似文化の“弱さ”と“強さ”
真似の文化には二つの面がある。
弱さ:
• 個性が育ちにくい
• 新しい挑戦が遅れる
• 変化に過敏で自信が育ちにくい
強さ:
• 良いものを一気に広げられる
• 社会全体がシンクロしやすい
• 協調が美徳になる
つまり、問題なのは真似そのものではない。
真似の裏にある「恐れ」が強すぎることだ。
これから必要なのは“個の一歩”の価値を上げること
昭和、平成、令和。
時代は確実に変わった。
これから大切なのは、
真似しない人にこそ価値を認める文化だ。
• 最初にやった人を笑わないこと。
• 失敗した人に石を投げないこと。
• 違う意見を“危険”ではなく“可能性”として扱うこと。
こうした空気が広がれば、日本の真似文化は“弱さ”ではなく“強さ”として輝き始める。
横並びの国だからこそ、
どこかの誰かの小さな勇気が、全体の空気を変えていく。
それは、あなたや私の一歩かもしれない。
作品名:「真似をする国」としての日本をどう捉えるか 作家名:タカーシャン



