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タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
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寿命を削る人々

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寿命を削る人々――働きすぎの哲学

 人は、生きるために働く。だが現代の多くの国では、いつのまにか「働くために生きる」構造へと姿を変えつつある。
 その最たるものが、長時間労働である。
 人生の時間は誰にとっても有限であり、誰も巻き戻すことができない。それにもかかわらず、自らの生命を細く削り取るように働き続ける人々が存在する。彼らは怠惰ではなく、むしろ責任感が強く、優しさがあり、真面目であるがゆえに「寿命の前借り」をしてしまうのだ。

 長時間労働が社会に根付く背景には、単なる経済的構造を超えた、人間観の問題が潜んでいる。「労働は尊い」「働く者こそ偉い」という精神文化そのものは尊重すべきだが、それがいつのまにか“過剰な自己犠牲”に変質してしまった。その結果、国も企業も、個人の体力や精神力を無尽蔵の資源であるかのように扱う。
 だが、命は石油ではない。命は削れば減る。これは科学ではなく、生命の真実である。

 身体は、長時間の緊張状態が続けば続くほど、自律神経が興奮し、筋肉は硬直し、呼吸は浅くなり、脳の回復力は低下する。「緩むことを忘れた社会」とは、まさに麻痺した社会である。
 私たちの多くは、からだの悲鳴を“当たり前”として受け入れ、頭痛や疲労や睡眠不足を「仕方ない」と封じ込めてきた。しかしその沈黙こそ、寿命を削る音なき叫びである。

 国にとって、国民の寿命は最大の資産である。
 高齢化社会と言われるが、本当の問題は「長生きする人が少ないこと」ではなく、「長生きできるはずの人が早く疲弊してしまうこと」である。
 労働によって寿命が削られ、健康寿命が短くなれば、医療費は増加し、生産性は低下し、家庭環境は崩れ、教育にも負の連鎖が及ぶ。
 一人の健康は一人の問題ではなく、国家の基盤そのものなのだ。

 では、なぜ人はそこまで働き続けてしまうのか。
 そこには、恐れがある。
 仕事を減らせば評価が下がるのではないか。周囲に迷惑がかかるのではないか。収入が減り、家族に心配をかけるのではないか。
 その恐れを抱く心は、とても人間らしく、誰も責められない。むしろ、その恐れを抱えながら踏ん張る人ほど、社会にとって大切な存在だ。

 だからこそ、国が守らなければならない。
 「もう一歩頑張れば壊れる」という地点まで追い込まれる前に、制度として休息を義務づける。
 睡眠・余暇・家庭生活を「個人的な問題」にせず、「国の未来を守るインフラ」として扱う。
 労働時間はコストではなく、生命の管理である。

 人間にとって、働くとは本来「生命を使う」のではなく、「生命を活かす」営みである。
 しかし、長時間労働はその反対で、生命をすり減らし、可能性を奪い、心の弾力を失わせる。
 弛緩こそ、創造の源であり、幸福の入口である。
 リラックスした時にこそ人は本来の知恵を発揮し、他者への思いやりを取り戻し、未来を考える余裕を得る。
 ゆるむことは“弱さ”ではなく、生命の回復運動である。

 人生は、働くことだけでできていない。
 家族との笑顔、友人との語らい、自分の好きなことに没頭する時間、ふと空を見上げて呼吸する瞬間。
 こうした「小さな幸せ」の集合体こそが人生であり、人間の幸福である。
 長時間労働は、それらを切り捨てる。
 そして、削られた幸福は二度と戻らない。

 結局のところ、長時間労働とは、国の未来を喰う行為であり、人間の尊厳を損なう構造であり、生命の哲学に反する働き方である。
 働く人々が“寿命を削らずに済む社会”とは、労働時間が短い社会ではなく、「命を主体に置く国家」のことだ。

 人生の価値は、時間の量ではなく、心の質にある。
 これからの時代に必要なのは、長く働く人ではなく、長く生きる人だ。
 ゆっくり働き、深く生き、心を大切にする人々が増えた時、国はようやく本当の意味で豊かになる。

 削るためではなく、満ちていくために働く。
 その文化こそ、未来の基盤となるべき「人間の働く哲学」である。
作品名:寿命を削る人々 作家名:タカーシャン