「戻る」の正体
けれど私たちが経験してきた“戻る”は、本当は「元通りになる」ことではほとんどない。元通りの形で帰ってくるものなど、ほとんど存在しないからだ。
たとえば「位置に戻る」。
そこには物理的な明確さがあるように感じる。
家に戻る、席に戻る、元の場所に戻す。
しかし、そこに立ち返ったとき、私たちは既に同じ人間ではない。
外の空気を吸い、会話を交わし、時間が流れ、心の微細な感情が変化している。
“位置”は同じでも、存在の方が変わってしまっている。
その意味で、同じ場所に「戻った」としても、それは新しい私がその場所に「再び立った」に過ぎない。
形が戻る、ということもまた曖昧だ。
折れた枝は元の形に似せて癒えるが、同じ構造には決して戻らない。
壊れた皿を金継ぎしたとき、それは「戻った」のだろうか。
もしくは「新しくなった」のだろうか。
「昔の形に戻ったようでいて、戻っていない」──その矛盾が、人の営みにもそのまま響いてくる。
生活が戻る、という表現がある。
病気や失業、災害、離別など、人生の荒波を経た人が口にする言葉だ。
しかし生活は、元の同じ生活に戻るわけではない。
一度経験した痛みや心の揺らぎは、確実にその人を変えてしまう。
同じ動線を歩いたとしても、心の中に流れる感覚は以前とは異なる。
「戻った」というより、「続きの人生に再び立ち上がる」と言ったほうが近いだろう。
思えば、「戻る」という言葉は、時間の流れを無視している。
私たちの人生は、常に変化の上を流れている。
たとえまったく動かず、昨日と同じ場所で暮らしていたとしても、細胞は入れ替わり、気温は変化し、人間関係も揺らぐ。
同じ日など一日もない。
それなのに「戻る」という言葉だけが、あたかもそこに安定した「元の状態」があるかのように語る。
だが人生には「完全な元通り」はない。
だからこそ、「戻る」という行為は、本質的に曖昧なのだ。
しかし、この曖昧さこそが、人間のしなやかさを支えている。
元通りにしなければいけない、と考えると苦しくなる。
失敗した時、人間関係がこじれた時、病気をした時。
「以前のように戻らなければ」と思うほど、その距離に苦悩する。
だが、「戻る」は曖昧でいい。
正確でなくていい。
もっと柔らかく、揺らぎのある言葉として扱えばいいのだ。
少しずつ近づいていくことも「戻る」。
形を変えながら再開することも「戻る」。
以前とは違うやり方で続けていくことも「戻る」。
そう捉えていいのだ。
人は必ず変わる。
状況も、人間関係も、心も、身体も。
その変化を抱えたまま、以前いた場所に“もう一度立つ”。
この行為が「戻る」の本質なのだろう。
つまり「戻る」とは、過去への復帰ではなく、
“変化を携えた自分で、再び歩き出すこと”
なのだ。
元通りではないからこそ、戻れる。
完璧に元の形に戻らないからこそ、新たな力がそこに生まれる。
壊れた皿に金継ぎが美しさを与えるように、人生の傷や揺らぎは、新たな意味を私にもたらす。
戻るという曖昧な言葉を、どうか柔らかく受け止めていい。
私たちはいつでも、どこへでも、形を変えながら戻る。
そのたびに違う私で、そのたびに新しい世界へ立ち返っていく。
「戻る」とは、曖昧でありながら、
人生の再配置そのものなのだ。



