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タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
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裁かれるのは“事実”であって“人生”ではない

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人生にとってデリケートな犯罪

──公にしない訴訟と罰則、静かな司法の可能性

 世の中には、声を上げようとした瞬間に人生の土台が崩れてしまうような“デリケートな犯罪”がある。暴力、性被害、パワハラ、家庭内の衝突、介護現場での虐待、デジタルな監視や盗撮といった見えない暴力。どれも被害は深刻だが、被害を訴えるには「新しい被害」を受ける覚悟が必要だ。家族関係の破壊、職場での信用失墜、周囲の偏見、報道による晒し、そして自分自身を責め続ける心理的負荷。被害を口にした途端、人生の別の領域が崩落していく。だからこそ、多くの苦しみは表に出ず、暗い場所に沈む。そして沈んだまま、また同じ被害が繰り返される。

 犯罪とは、本来は公的空間の問題であり、社会が公に向き合うべきテーマである。だから裁判は公開され、透明性こそが正義の担保とされてきた。だが、正義の名の下に、守られるべきものが踏みにじられてしまう領域がある。透明性が必ずしも被害者の安全につながらない犯罪領域がある。人生の深部に触れる“デリケートな犯罪”はまさにそれであり、そこでは「声を上げる勇気」よりも、「声を上げたあとの破壊」への恐怖がいつも勝ってしまうのだ。

 実際、日本では性被害の9割以上が届け出されていないと言われる。家庭内暴力も、介護現場の虐待も、デジタル性暴力も、見えないところで氷山のように積み上がっている。被害者は「知られたくない」「騒ぎにしたくない」「家族が壊れる」「仕事を失う」という理由で、声を押し殺している。一方で加害者も、社会的なレッテルによって人生が一瞬で終わることを恐れ、事実の隠蔽に奔走する。結果として、事件化しにくく、真相は闇に沈み、被害は繰り返される。

 この悪循環を断ち切るには、「公開」と「正義」を結びつけるだけの古い司法観を一部修正する必要がある。すべての犯罪が世間の目に晒される必要はない。被害者の人生を守るため、また加害者の更生を妨げないために、“公にしない訴訟”や“公にしない罰則”が必要な領域がある。静かに、しかし確実に司法が働く仕組み。これを私は「静かな司法(Quiet Justice)」と呼びたい。

 例えば、裁判記録の仮名化を徹底し、原則として報道を禁止する制度。被害者の出廷を強制しない、ビデオリンクや代理出廷を標準とする。裁判の一部または全部を非公開にし、法廷で語られた個人的事情が外部に漏れないようにする。さらに、判決そのものを匿名化したうえで、統計データだけを社会に公表する。ヨーロッパでは性的暴力や児童虐待分野で、すでにこうした制度が実装されている。日本も、静かに司法へと舵を切る時期に来ている。

 さらに踏み込むと、「非公開刑」という考え方も必要になる。これは、刑罰は確実に執行されるが、名前や事件名は公表されないという仕組みである。無条件の非公開ではもちろん問題がある。しかし、被害者が強く望み、社会的危険性が低く、更生可能性が高い場合には、社会的制裁を軽減する形での刑罰が現実的である。公に晒されることで人生が破壊され、逆に再犯のリスクが高まるケースも多いのだ。

 社会死を恐れて逃げる、嘘を重ねる、証拠を隠すという行動は、強烈な「公開の罰」が背景にある。刑務所の中よりも、ネット上に永久に刻まれる「晒し」の方が恐ろしい現代。だからこそ、非公開刑は再犯防止にもつながる。加害者の社会復帰を妨げないという点では、長期的に社会の安定に寄与する側面がある。

 では、なぜここまで“静かな司法”が必要になったのか。その背景には、情報社会の残酷さがある。昔のように、裁判が地方紙の小さな記事にしか載らない時代ではない。SNSで名前が搜索され、顔写真が晒され、親族や職場にまで永遠に情報が残る。被害者もまた、名前こそ出ないとしても、周囲に噂として流れ、傷つき続ける。公開裁判が個人を守るどころか、社会的な処刑台になってしまうケースが増えているのだ。

 “一般市民が裁く”という透明性は大切である。しかし、すべての犯罪にそれを適用するのは、21世紀の現実にそぐわない。透明性を価値として残しつつ、守るべき領域には「静けさ」を選ぶ。これが新しい時代の司法のあり方ではないだろうか。

 「公にしない」というのは、決して隠蔽ではない。むしろ、隠されてきた被害が初めて光に当たるという側面がある。声を上げられなかった被害者が、安心して訴えることができるようになる。表に出ないからこそ、ようやく語れることがある。非公開制度は、沈黙を破るための仕組みなのだ。実際、被害者支援の現場では「名前だけでも隠れるなら証言できる」という声が圧倒的に多い。

 そして、社会が静かに矯正される構造が生まれる。非公開でも、統計として実態は記録される。被害の傾向が見え、政策の改善につながる。加害者は罰を受け、再発防止の教育を受ける。家族も心理的ケアを受け、生活が立て直される。大げさなニュースや見世物のような裁きではなく、生活を守るための矯正が淡々と行われる。

 もちろん、この仕組みには慎重な監視が必要である。「権力の都合で非公開にされるのではないか」という懸念も出るだろう。だからこそ、非公開の適用基準を厳格に公開し、司法の濫用を防ぐ制度が不可欠である。透明性を保ちつつ、個人の切実さを守る。そのバランスが最も重要なのだ。

 人生には、多くの人が知らなくてもいい領域がある。傷ついた心、家族の事情、職場の複雑な力関係、介護の限界、性にまつわる深い痛み。それらは、声を上げた人が責められるものではなく、静かに、確かに守られるべき領域である。司法がその静けさを引き受けることで、ようやく救われる命がある。

 社会は、事件そのものの重大さだけでなく、事件を語る側の人生の重さにも目を向けなければならない。「正義」とは何か。「守る」とは何か。そして、「晒す必要のない領域」とはどこか。それを丁寧に選び取りながら、新たな司法の形をつくる時期に、私たちはすでに足を踏み入れている。