無駄の塊としての日本
――時間をかけることが、なぜか“良いこと”とされてしまう国で
日本には、静かに積み上がった「無駄の文化」がある。
病院の長い待ち時間。
役所の窓口で延々と書かされる書類。
混まない時間に来たはずなのに、結局“順番待ちに人生を差し出す”仕組みが、あらゆる場所に張り巡らされている。
それは単なる非効率ではない。
もっと深いところで、「時間をかける=良い」「慎重こそ美徳」「手間こそ誠意」という価値観が根強く残っているからだ。
けれど時代はもう、別の姿を求めている。
丁寧とは、ゆっくりすることじゃない。
慎重とは、遅くなることじゃない。
本当の丁寧さは、
正しい情報を最短でつかみ、必要な判断を間違えずに行い、適切な対応にすぐ移れることだ。
本当の慎重さは、
危険を前にして素早く準備・対策を整えられることだ。
無駄を増やして安心するのは、もう過去の文化である。
仕事は「作業」ではない
多くの仕事現場では、
「仕事をつくる」ことが評価される。
会議をつくる。
報告書をつくる。
資料をつくる。
しかしそれらはほとんどが「作業」であって「仕事」ではない。
仕事の本質は、
既存の手続きを増やすことではなく、
未来に役立つ価値を“創造”することにある。
創造とは、
今ないものを生み出す意志であり、
未来を変えるための選択であり、
無駄を取り除き、人を自由にするための設計でもある。
病院も、役所も、会社も、
「無駄が多いほど誠意がある」という昔ながらの呪縛を捨て、
最短・最適・最自然の働き方へ移行できたとき、
日本の現場は一気に軽くなる。
そして、そこで初めて、
“創造する仕事”が息を吹き返す。
作品名:無駄の塊としての日本 作家名:タカーシャン



