嫌なことを何十年も繰り返すと好きになるのか
――好きと嫌いは、紙一重なのか
「嫌いだったはずのことが、いつの間にか好きになっていた。」
人生の後半に差しかかって、そんな経験を語る人は案外多い。だが、好きと嫌いは本当に紙一重なのだろうか。あるいは、私たちの心が“慣れ”と“意味づけ”によって、嫌いを好きへと書き換えるだけなのだろうか。
長年続けた仕事、苦手だった作業、人づきあい。
「好きだから続いた」のではなく、「続けたから好きになった」ことは、確かにある。脳は、繰り返すものに安全と価値を感じるようにつくられている。毎日同じ駅に降り、同じ仲間と働き、同じ道を歩く──その“繰り返し”が私たちを守ってきた。
だが、嫌いがそのまま好きに変わるわけではない。
正確には「嫌いだけどできる自分への誇り」が生まれ、それが次第に“好きに近い情緒”へと変質していく。
苦手なことを避けず、諦めず、何十年も積み重ねた人が宿す、静かな自信。これは、好きでも嫌いでもない第三の感情だ。
「逃げなかった自分を、少し誇らしく思える気持ち」──それを私たちは便宜上“好きになった”と呼んでいるのかもしれない。
また、人生はある瞬間から「嫌い」が「必要だった」に変わる。
嫌な経験があるから、相手の痛みがわかる。
苦手なことを続けたから、後輩を励ませる。
遠回りがあったからこそ、今の道にたどり着いたと実感できる。
意味づけが変わると、嫌いは嫌いのままでも“価値ある経験”へと昇華される。
つまり──
好きと嫌いは紙一重ではない。
ただし「意味の変化」がその差を紙一重にしてしまう。
人生の多くは、好みよりも「向き合ってきた時間」で形づくられている。
どれだけ嫌なことでも、続ければ必ずその中に“自分だけの物語”が宿る。その物語が、人を強くし、優しくし、ときに“好き”のような温度を帯びさせる。
嫌いだったはずのことを、今日もやっている。
それは、あなたが弱いからではない。
そこに、まだ終わっていない物語があるからだ。
作品名:嫌なことを何十年も繰り返すと好きになるのか 作家名:タカーシャン



