お金をストックしない世界
〈貨幣再設計としての極端な未来構想〉
お金とは、本来なにを目的として生まれたものなのだろうか。
交換を円滑にするための道具として誕生したはずの貨幣は、現代では「貯める」「守る」「増やす」ことに主眼が置かれ、気づけば社会の根本的な歪みさえ生み出している。富はある場所には過剰に溢れ、別の場所には永遠に届かない。この偏在が、格差、貧困、対立、機会喪失といった問題を深刻化させているのは疑いようがない。
では、もしもこの“溜め込む”という思想そのものを、世界から取り除いてしまったらどうなるのか。
銀行という「お金をストックする機関」を廃し、個人もまた現金を持ち続けず、お金はすべて国家の管理する投資機関に預け、常に循環する仕組みに変えたとしたら——。極端ではあるが、そこには現代資本主義の盲点を突く、鋭い問題提起が潜んでいる。
この構想では、個人は“お金を保持する権利”を最小限にとどめ、基本的にはすべての資金は投資として動き続ける。自ら投資先を選ぶこともできるが、知識のない人は低金利の国の共同投資に任せることも可能とする。つまり、お金は常に流れ続け、誰一人として財布の奥や銀行口座の深部に眠らせておくことができない。社会全体の「血流」を止めない仕組みと言ってもよい。
この極端な世界では、まず経済の循環速度が大きく変わる。現在の経済には「貯蓄による停滞」が存在し、莫大な資金が金融市場や高齢富裕層の口座に眠ったまま動かず、若者や新興国には十分に回らない。お金をストックできない仕組みでは、これらの資金は自動的に社会に流れ出し、投資へと向かう。結果として、新しい産業や技術、地域発展の可能性が広がりやすくなる。特に、長年貧困と政治不安で資本が流れなかった国々には大きな変化をもたらすだろう。
また、「貯めた者が勝つ」という現在の資本主義の価値観も根底から揺らぐ。人は、本来生きるために働き、社会の一員として役割を果たしているはずだが、いつしか“貯蓄と投機”が人生の中心になりつつある。お金を溜め込めるからこそ、格差は累積し、世代を超えて固定化する。この構想は、そうした「勝ち逃げ」型の資本主義をリセットし、人間の行動原理を健全な方向へ戻す可能性を秘めている。
もちろん課題は大きい。最大の問題は国家の信頼性である。すべての資金を預ける以上、政府の腐敗、不透明な運用、政策優遇などのリスクは無視できない。権力が貨幣を管理する構造は、政治的悪用の危険性を常に孕む。個人の自由も制限されかねない。お金を自由に保持できないということは、場合によっては「監視」の強化につながる可能性もある。
また、投資の知識格差が新たな不平等を生み出す可能性もある。自分で投資先を選ぶ力がある人と、それを持たない人では、結果としての豊かさに差が生じ得る。国家運用に任せる仕組みを整えるとしても、人々が「理解し、納得する」ための教育が必要不可欠である。
それでも、この構想は挑発的でありながら、どこか清々しさを感じさせる。なぜか。それは、現代の経済政策が長年「応急処置」に終始し、貨幣そのものの構造には触れずにきたからだ。富の偏在、投機バブル、金融危機、低賃金社会——これらの問題に対し、世界は“少し調整する”“税金を見直す”といった小手先の修正だけで済ませてきた。しかし根本にあるのは、「お金の滞留」であり、それを可能にする「貯蓄の文化」そのものである。
お金をストックしない世界は、おそらく人類史において最も大胆な発想のひとつだろう。だが、極端な提案ほど、社会の盲点を露わにし、今の制度の硬直を打ち破る力を持つ。貯蓄の常識を捨てた時、人類は貨幣の本質——“流れてこそ意味がある”という原点に立ち返るのかもしれない。
これは単なる仮説でも理想論でもなく、資本主義の終盤を生きる私たちにとっての「問い」だ。
お金は誰のために存在し、どこへ流れるべきなのか。
そして私たちは、どれほどまで現行の仕組みに縛られているのか。
極端さの中に、未来の可能性がある。
この構想は、その扉を静かに叩いている。
作品名:お金をストックしない世界 作家名:タカーシャン



