座ることは悪いこと?
―揺れる心と、やさしさの居場所―
バスや電車で座席に腰を下ろした瞬間、胸のどこかがふっとざわつくことがある。
「このまま座っていていいのだろうか」
「もっと必要としている人がいるのではないか」
ほんの数秒のうちに、そんな考えが頭をよぎる。座るという行為が、なぜか少し後ろめたいものに感じられてしまう瞬間がある。
けれど、その感覚は、あなたが“他者への視線”を持っているからこそ生まれるものであり、決して悪いことではない。むしろ、周囲を思いやる力が働いている証だ。
公共交通機関には、さまざまな事情を抱えた人々が乗り込んでくる。足腰の弱い高齢者、妊娠中の女性、子どもを抱えている親、怪我をしている人、体調の悪い人。そうした方々に席を譲ることは、社会の自然な呼吸のようなものだ。
しかし、配慮の線引きは意外に難しい。
私たちもまた、完全に元気なわけではない。
仕事帰りで疲れ果てた日、眠気に負けそうな日、自分自身がふらつく日だってある。
だからこそ、ひとつの判断基準があるとすれば、
“立っていることで健康に大きな負担がかかりそうな人”を優先する
という、とてもシンプルな線だろう。
杖をついたお年寄り、マタニティマークをつけている女性、赤ちゃんを抱えた親、顔色の悪い人。そうした人が乗ってきたら、そっと席を立つ。それだけで、空気がやわらかくなる。声をかける勇気がないときは、黙って立つだけでも「どうぞ」の合図になる。
ただし、忘れてはならないことがある。
あなた自身もまた、守るべきひとりの存在だということ。
体調が悪い日、気持ちが追いつかない日、重い荷物を抱えている日。そんな日は、無理をして譲る必要はない。あなたが倒れてしまっては、周囲の人の負担が増えるだけだ。
「譲ろうか、どうしようか」と迷う心こそ、あなたの優しさの根本にある。
人は迷うからこそ、相手の存在を感じ取れる。
迷える人は、やさしい人だ。
席を譲るかどうかよりも、「どうありたいか」を考え続ける心が、すでに思いやりの形になっている。座るあなたも、譲るあなたも、迷うあなたも、すべて“やさしさの連続”の中にいる。
電車の揺れの中で、今日もあなたは誰かを傷つけまいとする静かなやさしさを携えている。
その心がある限り、座ることは何ひとつ悪いことではない。
作品名:座ることは悪いこと? 作家名:タカーシャン



