仕事が現実逃避の場 ― 今の日本
いまの日本では、「仕事」と「現実」が逆転しつつある。かつて仕事は生活の糧を得るための義務であり、社会に役割として組み込まれるための通過点だった。しかしいま、多くの人にとって仕事は、むしろ現実からの避難所、ある種の“逃げ場所”になっている。家庭の困難、孤立した人間関係、行き場を失った心、それらが職場に押し寄せるのではなく、職場へと避難していく。そして人々は仕事に没頭することで、自分が抱える混乱や孤独を一時的に忘れようとする。
その背景には、社会の機能の変質がある。家庭は小さくなり、地域はつながりを失い、人間関係は希薄化した。安らぐ場所は減り、対話は画面の向こうへ吸い込まれ、困ったときに相談できる相手も見つからない。仕事の現場だけが、評価基準が明確で、役割がはっきりし、ルールが整備されている。そこに身を置くことで、人は自分の存在価値を確認できる。「仕事なら分かる」「やるべきことが見える」——その分かりやすさが、逆説的に人々を仕事に縛りつけている。
過労という言葉が日常語になって久しい。しかし本質的な問題は、労働時間が長いことや労働環境が厳しいことだけではない。より深い層には、「仕事に逃げ込まざるをえない社会」そのものが横たわっている。働くことが、生きることから逃れる手段になっている状態である。実際、休日の居場所がない人、仕事を辞めた瞬間に急に不安が押し寄せる人、家庭より職場にいる方が落ち着く人は少なくない。仕事は苦しい。それでも多くの人が職場へ足を運ぶのは、そこが唯一“自分を保てる空間”になってしまったからである。
職場が「安全地帯」として機能していること自体が問題ではない。むしろ、人が安心して役割を果たせる環境が整っていることは貴重である。しかし問題は、家庭・地域・社会の側の脆弱さと、職場の過剰な役割集中との“バランスの崩壊”にある。逃げ込む場所が仕事しかないという状況は、個人の心を疲弊させ、社会全体の持続可能性を損なう。
現実逃避としての仕事は、本人にとっては救いでありながら、長期的には自己喪失を招く。仕事に没頭している間は、自分の心の混乱や孤独を直視しなくていい。しかし、ふと足を止めた瞬間に、押し込めた感情が津波のように逆流してくる。退職後に急激に精神状態を崩す人が多いのも、長年「仕事」という仮面に心を預けてきた反動に他ならない。職場中心の自己像は、持続するための基盤を持たない。
一方で、職場の側にも変質が起きている。企業は効率化と合理化の名のもとに、人間関係の余白を削ぎ落してきた。雑談や共感の時間が減り、評価制度は数字で人を測るようになった。仕事に逃げ込む人々は増えながらも、その職場自体が人間的な支えを提供しにくい構造へ変化している。だからこそ、仕事を現実逃避として利用する人ほど、職場での孤独感に直面するという矛盾が生まれる。逃げ込んだ先で、さらに孤立するのである。
では、どうすればいいのか。答えは「仕事か、家庭か」という二者択一の発想ではなく、役割と居場所の多様化にある。仕事以外の空間に小さな居場所をつくること、複数のコミュニティに属すること、家族や友人でさえない“ゆるいつながり”を育てること。人は複数の居場所を持つことで、特定の場に過剰に依存せずに生きられる。仕事に逃げ込まなくてもよい社会とは、仕事以外にも「自分を保てる場所」がある社会である。
いま必要なのは、仕事を責めることではなく、仕事以外の領域の再生である。人は、ただ働くだけではつながりを感じられない。家庭も地域も壊れてしまったのではなく、形を変えながら再生の途中にある。コミュニティの再構築は時間がかかる。しかし、一人ひとりが自分の心の“退避場所”を仕事以外にも見つけようとする姿勢こそが、その再生の礎になる。
仕事は現実からの逃避にもなりうる。だが、本来は「人生の一部」であって「人生の代わり」ではない。現実から逃れるために働く社会から、現実を生きるために働ける社会へ。いま問われているのは、働き方ではなく、生き方そのものなのである。
作品名:仕事が現実逃避の場 ― 今の日本 作家名:タカーシャン



