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タカーシャン
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novelistID. 70952
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土に帰らなかったひぐらし

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土に帰らなかったひぐらし

―命の完結をめぐる小さな哲学―

十一月、駅の階段に一匹のひぐらしが落ちていた。
夏の象徴のようなその虫は、もう鳴くこともなく、乾いたアスファルトの上で微かに光を反射していた。人々はそれを踏まぬように避けながら通り過ぎる。だが誰も、その小さな亡骸に視線を留めようとはしない。
「土に帰らなかったひぐらし」――この一言が、妙に胸に残った。

本来、命あるものは土に帰る。それが自然の摂理であり、循環の法である。だが、都市という人工の世界では、その帰るべき「土」さえ奪われている。コンクリートの上に倒れたひぐらしは、もはや自然の輪の中に還ることができない。焼却場へと運ばれ、灰として消えるか、風に吹かれて消滅するしかない。
それは、人間が作った文明の中で「自然の終焉」を体現する、小さな犠牲者のようにも見える。

しかし、もう一つの見方もある。
このひぐらしは、最後の最後まで鳴き尽くし、生き尽くしたのではないか。秋を越えて十一月まで生き延び、気温の低下の中で声を枯らすほど鳴ききり、そして、駅の階段まで飛び来て力尽きた。そう考えると、それは「無念」ではなく、「やり切った」命の姿にも思える。

人間もまた同じだ。多くの者が「本望」という言葉を残して死ねない。
仕事、家庭、夢、関係性。やり残したことを数え上げればきりがない。だが、「やり切る」とは、何も完全にやり遂げることを意味しない。
それは、自分のいのちを使い切る、という感覚だ。
不完全なままでも、自分の心と体の全てを燃やし尽くして生きたならば、それは「完結」と呼べるのではないか。

ひぐらしが土に帰れなかったように、人間もまた、思うように帰る場所を見失っている時代だ。自然にも、家族にも、地域にも、心の拠り所がなく、漂うように生きている。だが、帰る場所がないのなら、「いまここ」でやり切るしかない。
それは、「この瞬間に帰る」という新しい帰還の形でもある。

あの日のひぐらしを見て、私は思った。
もし、あの命が自らの生の終わりを受け入れていたとしたら、あの静かな死は美しい。
生きるとは、終わりに向かって鳴くこと。
死ぬとは、静かに黙すること。
そして、どちらも同じ「自然」なのだ。

駅の階段に倒れていた小さな命は、やがて誰かの靴音に紛れ、風に流された。
それでも私は、その姿を忘れられない。
なぜなら、そこには「人間よりも誠実な生の証」があったからだ。

やり切ったのか。無念だったのか。
その答えは、どちらでもない。
生き切ったという事実だけが、確かなものとして残る。
私たちもまた、そのように、やり切ることの意味を静かに問われているのだ。