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タカーシャン
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novelistID. 70952
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過ぎたるは及ばざるが如し ― 令和の時代そのもの

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過ぎたるは及ばざるが如し ― 令和の時代そのもの

「過ぎたるは及ばざるが如し」——。
古来より伝わるこの言葉ほど、令和の時代に似合う言葉はないかもしれない。
今の社会は、まさに「やりすぎ」と「やらなすぎ」のはざまで振り子のように揺れている。
働きすぎて疲弊し、休みすぎて不安になる。
規制を強めれば窮屈になり、自由を拡げれば混乱が生まれる。
SNSでは声が大きすぎ、現実の対話では声が小さすぎる。
バランスを欠いた極端の時代——それが令和である。

昭和は「やりすぎの時代」だった。
根性、努力、犠牲。
過剰な競争と自己犠牲によって経済は成長し、人々は貧しさから脱した。
だがその反動として、平成では「抑える時代」へと転じた。
自粛、調和、空気。
「出すぎないこと」「傷つけないこと」が美徳とされ、やがて社会全体が“内向き”になっていった。
そして令和——。
その両極の疲弊を引き継ぎながら、何かを「やりすぎても」「控えすぎても」叩かれる、極端の無限ループに陥っている。

たとえば「正しさ」。
正しさは、人間を救うが、人間らしさを奪うこともある。
コンプライアンスが行きすぎれば、失敗から学ぶ余白を奪い、教育も職場も息苦しくなる。
一方で、無関心や放任もまた、社会を蝕む。
「正しさ」は、ほどほどでなければ人を傷つける。
だが令和では、ほどほどを保つこと自体が難しい。
なぜなら、すべてが可視化され、拡散され、即座に評価されるからだ。
過ぎるも及ばぬも、どちらも炎上する。

過ぎたるとは、過剰のことではなく、「中庸を失うこと」である。
及ばざるとは、怠慢のことではなく、「勇気を欠くこと」である。
どちらも、中心を見失った状態だ。
それは個人の問題ではなく、社会全体の心理的揺らぎとして表れている。
例えば、働き方改革。
長時間労働の是正は必要だった。
だが「無理をしない」がいつの間にか「頑張らない」に変わり、成長の意欲まで削がれてしまった。
他方、企業は「成果主義」を強め、個々の負担を見えにくくしている。
制度としては正しいが、心の均衡は崩れている。
「やりすぎ」と「やらなすぎ」が同居する——これが令和の現場である。

また、個人の生き方にもその傾向は顕著だ。
健康志向は過熱し、食も運動も「管理」される。
情報は過多となり、少しの沈黙さえ不安を生む。
人間関係においても、「気をつかいすぎ」と「関わらなすぎ」が同時に進行している。
相手を傷つけないようにと沈黙し、結果として孤立が深まる。
優しさの“過剰”と“欠如”が、同じ根から生まれているのだ。

では、どうすればよいのか。
中庸とは、単なる「真ん中」ではない。
それは、極端を知ったうえで、自らの位置を選ぶ知恵である。
過ぎたるを恥じず、及ばざるを恐れず、状況に応じて「ちょうどよさ」を探る姿勢。
それが成熟した社会の条件だ。
かつて孔子が「中庸」を徳の中心に据えたのは、人間の心が常に振り子のように揺れることを知っていたからだろう。
静止を求めるのではなく、揺れながらも崩れない均衡を保つこと——。
それこそが「生きる知恵」なのである。

令和という時代は、ある意味で人類史上もっとも「調整能力」が問われる時代である。
技術も価値観も進化しすぎた。
情報も道徳も、あふれすぎた。
だからこそ今こそ、「過ぎたるは及ばざるが如し」を単なる諺ではなく、時代の指針として読み直す必要がある。
それは「ほどほどに生きる」弱さではなく、「極端を超えて生きる」強さである。

令和とは、行きすぎた正義と控えすぎた優しさの時代。
だがそのはざまにこそ、ほんとうの「人間らしさ」が潜んでいる。
過ぎたるを恐れず、及ばざるを恥じず、
ただ自分にとっての“ちょうどよさ”を探し続けること。
それが、令和をしなやかに生き抜くための、新しい中庸の道である。