人はなぜ、人を集めたがるのか
——「集団」の時代を超えて、「対話」の再生へ
人はなぜ、人を集めたがるのか。
会合、会議、集会、イベント——。
この国では、一年を通して「会」という名のつく行事が絶えない。
会社では定例会議、地域では説明会、行政では公聴会、宗教でも教育でも、何かを伝えるためにはまず「人を集める」ことが前提となっている。だが、その多くは「伝える」ことよりも「管理」や「演出」のために行われてはいないだろうか。
「集まる」と「集める」は似て非なる行為である。
「集まる」とは、自然発生的な共鳴であり、互いの意志の波長が合うことによって生まれる。
一方「集める」は、意図的な収束であり、主催者の都合によって個を一方向にまとめる行為だ。
そこには「力の方向」が存在する。
人は、集めることで自分の存在を確かめ、また、自分の考えが社会に影響を持つと錯覚する。
それは、孤独を恐れる心の裏返しでもある。
そもそも、人間にとって「集団」は原始的な生存戦略だった。
火を囲む、狩りを分担する、敵から身を守る。
群れに属することで得られる安心は、DNAの奥に刻まれている。
だが現代では、物理的危険よりも「情報の孤立」や「社会的な置き去り」が恐れられる。
だからこそ人は、情報共有の名のもとに、再び群れたがる。
「孤立していない」ということ自体が、新しい安全神話になっているのだ。
しかし、現代の「集まり」は本当に人を結んでいるだろうか。
ほとんどの会議は一方的な情報提供であり、参加者の声は「議事録」という無機質な記録の中に吸い込まれる。
拍手、賛同、形式的な質疑。
そこには“沈黙の同調”が広がっている。
発言を控える空気こそが、現代社会の最大の集団心理である。
「会」という名の下で、実際には“個”の声が消されていく。
集めることは、しばしば“封じる”ことと表裏一体なのだ。
それでも人は集める。
なぜか。
それは、「個別に対話する勇気」を失ったからだ。
一対一で話すことは、逃げ場のない真実と向き合うことを意味する。
人数が増えるほど、責任も感情も希釈される。
つまり、大人数の場は、誤魔化しがきく構造である。
主催者にとっても、聴き手にとっても、都合がいい。
だから「集まるイベント」が氾濫し、「個別の対話」が激減している。
現代人は“共感の仮装”の中で、互いに距離をとっているのだ。
真の意味で人がつながるのは、群れではなく、対話である。
一人の心がもう一人の心に届くとき、そこに新しい世界が生まれる。
会議の中では見つからない、沈黙の理解、視線の交わり、ため息の意味。
それこそが人間らしい「共感」であり、「集合」よりも深い「結合」である。
もし社会が本当に成熟をめざすなら、「集める力」より「聴く力」を重視すべきだろう。
多くを呼ぶより、ひとりに届く言葉を持つこと。
広く伝えるより、深く感じ合う時間を持つこと。
そのほうが、社会は静かに、しかし確実に変わる。
集めることの時代は、もう終わりに近い。
これからは、集まらなくてもつながる時代、
いや、むしろ「集めない勇気」を持てる人こそが、
真に人を動かす時代をつくっていく。
作品名:人はなぜ、人を集めたがるのか 作家名:タカーシャン



