闇は光より深い
――太陽十兆個分の閃光が照らせなかったもの
過去最大級のブラックホール・フレアが観測された。
天文学者の報告によれば、その光の放出量は太陽十兆個分に匹敵するという。
想像を絶する光量である。だが、その眩い閃光の記録に、私たちは奇妙な静けさを覚える。
――これほどの光が放たれても、宇宙の闇は少しも薄れない。
光が増しても、闇は減らない。
むしろ光が強ければ強いほど、闇の深さが際立つ。
それは物理的な現象を超えて、人間存在の寓話でもある。
私たちは知を増すたびに、世界の広大さと自らの無力を知る。
文明が進むほどに、孤独や不安の闇が濃くなるのも、その表れだろう。
光とは理解であり、闇とは未知である。
人類は長い歴史のなかで、闇を恐れ、光を求めてきた。
だが、闇を完全に駆逐した文明など存在しない。
なぜなら、闇は「欠如」ではなく、「存在の基盤」だからである。
夜がなければ昼もなく、沈黙がなければ言葉も生まれないように、
闇は光の対極ではなく、共犯者なのだ。
ブラックホールとは、まさにその象徴である。
重力があまりに強く、光さえ脱出できない領域。
しかし、その“完全な闇”の縁から放たれたのが、今回のフレアだった。
つまり、光は闇の内部からしか生まれない。
絶望の中心から希望が生まれ、沈黙の奥から言葉が芽吹くように。
闇を避けることではなく、闇を覗き込むことこそが、人間の創造の原点である。
科学の進歩は、闇を解明する努力の歴史だ。
だが、どれほどの観測機器を手にしても、
宇宙の闇の九割は、いまだ「暗黒物質」「暗黒エネルギー」として正体不明のままだ。
そして人間の内なる宇宙もまた、同じように測定不能である。
怒りや哀しみ、愛や死への恐れ――それらは脳科学の数値に還元できない闇である。
人は闇を抱えたまま生き、闇を語るために芸術を生み、
闇を受け入れるために宗教を創った。
太陽十兆個分の光が放たれても、照らせない闇がある。
それは「存在の影」ではなく、「存在そのもの」。
私たちは光に頼りすぎて、闇を誤解してきた。
闇とは、無ではなく余白であり、
世界のあらゆる意味が生まれる“母胎”のようなものだ。
文明とは、闇を削りすぎた世界かもしれない。
照明の届かない夜を奪い、スクリーンの光で眠る現代人は、
本当の暗闇を知らない。
だが、闇のなかにこそ「聴く力」「感じる力」「待つ力」が眠っている。
すべてを明るくしようとする社会は、
同時にすべてを平板にしてしまう。
光は平等だが、闇は個的である。
闇の深さだけ、人は思索し、祈り、詩を紡ぐ。
ブラックホールの閃光を見上げながら、
私は人間の「限界」に安堵する。
どれほどの光を手にしても、闇を支配することはできない。
だからこそ、人間は傲慢に陥らずに済む。
闇を前にして、謙虚でありつづけること。
それが、科学にも哲学にも必要な姿勢ではないだろうか。
宇宙の闇は、光の届かぬ“欠損”ではない。
それは、すべての存在を包みこむ“完全”である。
闇があるから、光は輝く。
そしてその光が、また新たな闇を生む。
宇宙とは、永遠に続く「光と闇の往復運動」なのだ。
太陽十兆個分の光を観測しても、
照らせない闇がある。
けれど、その闇の中でこそ、
私たちは“見えないもの”を見ようとする。
闇は、光より深い。
それは、宇宙の真理であり、
人間の魂の記憶でもある。



