シナプス、スムージー論
――なめらかに生きる知性――
脳の中では、数兆もの神経細胞が絶えず信号をやり取りしている。
その接点を「シナプス」という。
電気信号が伝わる瞬間、わずかな化学物質が放出され、次の細胞へと橋を架ける。
この橋渡しが滞ると、思考も感情も、ぎこちなく歪んでいく。
つまり、人が「なめらかに生きる」とは、シナプスが健全に働いている状態なのだ。
社会もまた、巨大な神経系である。
人と人の間には、目には見えない無数のシナプスが存在する。
「おはよう」「どうぞ」「大丈夫ですか」――
そんな小さな言葉や仕草が、社会の伝達物質となって流れている。
列を一歩つめる、周囲の歩調に合わせる、さりげなく声をかける。
その一瞬の思いやりが、社会の神経伝達をスムーズにしている。
しかし現代社会では、この“社会シナプス”が劣化している。
SNSはつながりを拡大したが、共感よりも反応を促す。
ニュースは怒りや不安を刺激し、感情の興奮を常態化させる。
その結果、私たちの内なる伝達は過敏化し、社会的な回路はむしろ硬直している。
意見の違いを即座に敵意に変え、会話よりも遮断を選ぶ。
情報は溢れているのに、伝わるべきものが伝わらない――
まるで神経伝達障害を起こした脳のように。
そこに必要なのが、「スムージー的知性」である。
スムージーとは、異なる素材を一度に混ぜ合わせ、角をとり、なめらかにする飲み物だ。
果物も野菜も、乳製品も、氷も、ひとつの液体として融け合う。
「分けない」ことが、この飲み物の本質である。
現代社会が失いつつあるのは、この「まぜる力」だ。
正しい/間違っている、勝ち/負け、男/女、保守/リベラル――
私たちはいつの間にか、世界を分類することで安心を得ようとしている。
しかし、分類とはすなわち「切断」である。
シナプスが切れれば思考が滞るように、
社会の回路も分断されれば、流れは止まる。
スムージー的思考とは、分類をやめ、混ぜて考える知性だ。
異質なものを排除せず、混ぜ合わせることで新しい“味”を見つける。
白黒をつけるのではなく、グラデーションのまま受け止める。
この柔らかさこそ、現代社会における「なめらかな生存戦略」といえる。
列をつめるという小さな所作にも、それは表れている。
他人との距離を測り、空間を調整する。
「自分さえ良ければ」から半歩だけ引いて、流れを整える。
この感覚は、倫理ではなくセンスであり、
システムではなくリズムに属している。
私たちはいま、「つながる」ことに飽和し、「混ざる」ことを忘れている。
けれども社会を動かすのは、制度でもAIでもなく、
シナプスのような微細な共感の伝達である。
思いやりのひとこと、笑顔のひとしずくが、
人間関係という神経網をなめらかに保つ。
だからこそ、私はこう考える。
次の時代の知性とは、速く考える力ではなく、
なめらかに感じ、やわらかくつなぐ力だと。
シナプスが脳を動かし、スムージーが素材を溶かすように、
人と人とがやわらかくまじりあうことで、
この社会はようやく「思考する生命」として再び目を覚ますのではないか。
作品名:シナプス、スムージー論 作家名:タカーシャン



