食糧難の熊と、心の飢えた日本人
山に降りる熊が増えている。
原因は単純ではない。
どんぐりの不作、気候変動、森林の乱開発、そして人間が生態系を押しのけていった結果だ。
熊は飢えている。
だが、実のところ、飢えているのは熊だけではない。
日本の貧困層の心もまた、同じ飢餓状態にある。
収入が低くても、モノはあふれている。
しかし、「生きている実感」が欠乏している。
人とつながる時間も、役に立っているという自尊感情も、未来への安心も奪われた。
その心の状態は、まるで餌を求めてさまよう熊のようだ。
熊はもともと、慎重で賢い動物だ。
しかし飢えが限界を超えると、人里に出てくる。
理性よりも生存本能が勝つ。
同じように、人間も心が極限まで飢えると、理性が鈍り、暴力や依存、無気力や無差別な怒りが噴き出す。
それは「心の食糧難」とも呼べる現象だ。
かつての日本社会には、「お裾分け」や「お互いさま」という、心の栄養があった。
貧しくても、誰かと笑い合えた。
だが、現代はどうだろう。
助けを求める声は「自己責任」と切り捨てられ、SNSの中で「いいね」という栄養剤を探すしかない。
そこには、心を満たす本当の「実り」はない。
山に実りがなくなると、熊は人間界に出てくる。
社会に愛がなくなると、人間は仮想空間や犯罪、過激な思想に逃げ込む。
どちらも同じことだ。
環境の貧困は、心の貧困を映す。
熊が山から降りてくる風景は、
もしかしたら人間の魂が森から離れてしまった象徴なのかもしれない。
自然を壊したツケが、心の荒廃として私たちに返ってきている。
熊の姿は、「自然からの警鐘」であり、「人間の心の写し絵」だ。
本当に救うべきは、熊か、人か。
答えは両方である。
森を再生し、人の心も再生させる。
人間と熊、どちらも「生きる権利」を失ってはならない。
社会が「心の食糧難」から抜け出すためには、
まず一人ひとりが他者の痛みを想像することだ。
想像力こそ、心の栄養。
それが枯れた時、人間もまた熊のように、理性を失う。
熊を救うとは、人を救うこと。
貧困を癒すとは、自然を癒すこと。
この二つの飢えを、同時に癒せる社会こそ、
次の文明の姿なのだろう。
作品名:食糧難の熊と、心の飢えた日本人 作家名:タカーシャン



