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タカーシャン
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novelistID. 70952
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人は目の錯覚で認知した情報を何を持って正確に掌握するのか

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人は目の錯覚で認知した情報を何を持って正確に掌握するのか

――ほぼ99%は錯覚である――

私たちは毎日、何気なく「見て」「判断して」「理解した」と思っている。
だが、その「見た」という感覚こそが、すでに錯覚である。

目に映るのは光の情報であり、それを脳が過去の経験と記憶によって再構成する。
つまり、私たちが見ているのは「世界」ではなく、「脳が編集した世界」だ。
見えない部分は自動的に補われ、曖昧な形は既知の形に置き換えられ、断続する映像は連続した動きとして錯覚される。
現実とは、脳による精巧な編集作品なのである。

それでも私たちは、社会の中で「同じ現実」を共有している。
赤は赤、遠いものは小さい――そんな共通の前提があるおかげで、人間社会は秩序を保っている。
もしこの認識が人によってまちまちであれば、意思疎通は成り立たない。
つまり、社会とは個々の錯覚の一致によって支えられているとも言える。

では、その錯覚を「正確に掌握する」とは、どういうことだろう。
人は、完全な客観を得ることはできない。
誰もが自分の脳内で編集された“現実”を生きている以上、
「正確」とは、たった一つの真実ではなく、
多くの錯覚が重なり合って生み出す平均値にすぎないのかもしれない。

芸術家はこの平均値をずらそうとする。
彼らは、当たり前だと思われている錯覚の構造をあえて壊し、
人間の知覚の盲点を露わにする。
科学者は逆に、その錯覚を測定し、再現性という名の“秩序”を与えようとする。
そして哲学者は、「錯覚を錯覚としてどう扱うか」という問いを、思考の根本に据える。

私たちは錯覚から逃れられない。
だが、錯覚を錯覚と知ることで、わずかな自由を得ることはできる。
それが人間の知性の証でもある。
「自分はいま錯覚を生きている」と自覚することこそ、
真実への第一歩なのだ。

「見える」と信じるものほど見えていない。
「正確だ」と言い切るものほど、もっとも危うい。
だがその危うさを抱えながらも、人は他者と語り、世界をつくり変えていく。
錯覚を越えた先に真実があるのではない。
錯覚を透かしてなお見ようとする意志――その中にこそ、
人間の誇りと希望が宿っている。

私たちは錯覚の中で生きている。
しかし、錯覚を恐れず、意識的に見つめるとき、
その錯覚はただの虚構ではなく、
「生きるための現実」として光を帯びはじめるのだ。