家という幻想──1億円の安住とは何か
「住む家には、生涯で一億円ほどかかる」と言われる。
購入費、修繕費、税金、保険、光熱費──細かく積み上げていけば、確かにそのくらいになる。
一方で、平均的な生涯年収はおよそ二億円。税金を引かれれば、手元に残るのは一億五千万円前後。
つまり、人は稼いだお金の半分以上を「家」という箱に費やしている。
果たして、それほどの価値があるのだろうか。
家とは何か。
それは単なる雨風をしのぐ器ではない。
家庭という言葉が示すように、そこは人の心を温め、関係を結び、記憶を宿す場所でもある。
しかし同時に、それは最も大きな“固定”でもある。
所有した瞬間から、住宅ローンという鎖が足首に絡みつく。
自由を得るために建てた家が、気づけば自由を奪う。
この逆説に、私たちは長く気づかぬふりをしてきた。
昭和の時代、家は「人生の証」であり「男の勲章」だった。
庭付き一戸建てこそが成功の象徴とされ、家を持つことが社会的信用の条件でもあった。
だが令和の今、その価値観は急速に揺らいでいる。
人口は減少し、空き家は増え、仕事もリモート化した。
もはや「住む場所」は固定されるものではなく、「暮らしの拠点」として流動化しつつある。
それでもなお、人々は家を求める。なぜか。
家には、数字では測れない価値がある。
安心、家族の団欒、思い出──それらは市場では換算できない。
だが、その価値が「幸福」につながるとは限らない。
家族がそろっていても孤独な家庭があるように、立派な家があっても心の帰る場所がない人もいる。
本当の意味で「住む」とは、ただ屋根の下にいることではなく、心が安住する空間を持つことなのだ。
もし人生を一つの物語とするなら、家は舞台装置にすぎない。
それ自体が目的になると、物語は空虚になる。
家を持つことが夢だった時代は終わり、これからは「どんな時間を、どんな関係の中で過ごすか」が問われる時代である。
家の値段より、そこに流れる時間の質こそが価値となる。
実際、家を小さくすることで人生を広げる人も増えている。
ミニマルな生活、賃貸の自由、二拠点居住──これらは「持たない豊かさ」の実験だ。
家を減らすことは、可能性を増やすことでもある。
余白が生まれれば、旅にも出られるし、学びにも使える。
住まいを固定せず、「生きる場」を更新し続けること。
それが、現代における新しい“住む力”ではないだろうか。
思えば、家とは心の投影である。
頑丈な壁を築く人ほど、心に不安を抱えている。
開放的な家を好む人ほど、他者との関係を信じている。
私たちは家を建てながら、同時に自分の内側の家を建てているのだ。
その設計図を誤れば、どんな豪邸も牢獄になる。
「一億円の家」を考えるとき、問うべきは金額ではない。
その家で、どんな笑い声が響くのか。どんな沈黙が守られるのか。
人生の時間を、どれほど豊かに変換できるか。
それこそが、家の真の“価値”である。
一億円の家を持つことより、
一億円分の意味を生きることのほうが、ずっと難しく、そして尊い。
住まいとは、所有ではなく、生き方そのものなのだ。
作品名:家という幻想──1億円の安住とは何か 作家名:タカーシャン



