小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

清らかさとは何か──昭和と令和の接点にて

INDEX|1ページ/1ページ|

 
清らかさとは何か──昭和と令和の接点にて

「コンプライアンス」という言葉が、いつのまにか日本社会の空気を決定づけるようになった。
法令順守、倫理意識、透明性。どれも大切な概念である。しかし、その浄化作用が過剰になると、人間の自然な温度や曖昧さまでもが切り捨てられていく。善悪の線をはっきり引く社会ほど、息苦しさが増していくのはなぜだろう。

昭和の人々は、今の時代から見れば不器用で、粗く、時に乱暴だった。
だが、その不器用さの中にこそ「生の実感」があった。
間違いを恐れず、汗を流し、義理や情を重んじ、矛盾を抱えたまま前に進む。
社会は未熟だったかもしれないが、人は生きていた。
彼らが築いたのは、制度よりも「信頼」で動く国であり、
規則よりも「人間関係」で結ばれた共同体だった。

令和の日本は、その反省の上に立ち、きわめて清潔で整然とした社会を目指している。
だが、その清潔さは、ときに無菌室のようだ。
間違いを許さない風潮、リスクを恐れる組織、
そして正義が怒りと同義になるような空気。
「正しさ」を追い求めるあまり、「寛容さ」を失いつつある。

昭和の泥と情熱、令和の理性と清潔――。
この二つの価値観を対立させるのではなく、
いかに融合させるかが、これからの日本の課題である。

本来、「清らかさ」とは、汚れを知らぬことではない。
泥に触れ、痛みを知り、矛盾を受け入れた上でなお、
そこに光を見いだす力のことだ。
昭和の人々は、完璧ではなかった。だが、だからこそ、人の痛みに敏感だった。
失敗を恐れずに立ち上がる姿は、どんな規範よりも強い倫理を宿していた。

いま、令和の社会には、そうした「不完全さへの敬意」が欠けている。
効率と正確さが価値の中心にあるため、
人間のゆらぎや曖昧さが“非合理”として排除されがちだ。
だが、哲学とは、本来その“非合理の中にこそ人間の本質を見る”営みである。
合理化の果てに生まれる空虚さを、私たちはすでに感じ始めている。

昭和を懐かしむのではない。
そこにあった人間の根っこの温度を、次の時代のエネルギーに変えること。
それが「しなやかで清浄な時代」を築く第一歩だ。
潔癖すぎる正義は、やがて他者を裁き、自分をも縛る。
しかし、許しと理解に基づく正義は、世界を柔らかく包み直す。

「善悪に潔癖な時代は、伸び代を失う」と言える。
なぜなら、成長とは、間違いの中からしか生まれないからだ。
泥にまみれた経験、傷つけ、傷ついた記憶の中に、
人は他者の痛みを知り、慈しみの感情を育てていく。
それを排除する社会は、一見清らかでいて、実は脆い。

清らかさとは、
他者を裁かないこと、
そして自分を偽らないこと。
その両立こそが、時代を超える倫理の核となる。

昭和の強さと令和の繊細さ。
その二つが出会うとき、
日本はようやく「成熟」という段階へと歩み出す。
それは、正しさを競う社会から、
“人間らしさを尊ぶ文化”への転換でもある。

しなやかで清浄な時代とは、
矛盾を抱えたままでも他者を受け入れられる社会のことだ。
昭和を理解するとは、過去を肯定することではなく、
人間の不完全さを赦す智慧を学ぶこと。
その赦しこそが、新しい倫理と希望を生む。