小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

メディア考:テレビは「週刊誌化」したのか

INDEX|1ページ/1ページ|

 
メディア考:テレビは「週刊誌化」したのか

報道の公共性、見失った境界線

最近、テレビのニュースや情報番組を視聴する際、「これは本当に公共の電波で伝えるべき内容だろうか」と疑問に感じる瞬間が増えた。

きっかけは、松本人志氏の復帰の場が地上波テレビではなく、独自の有料配信サービス「DOWNTOWN+」に決まったというニュースだ。この事実は、制約が多いとされる既存のテレビ業界への、ある種の「見切り」とも受け取れる。そして、多くの視聴者がテレビに対して抱く不満――「つまらない」「スポンサーの顔色ばかり見ている」という声の正しさを補強しているようにも思える。

しかし、テレビへの根深い批判の核心は、単なる面白さの欠如ではない。それは、報道の「週刊誌化」という、より深刻な問題にある。

かつて、テレビの報道と週刊誌(特にゴシップ性の高いもの)の間には、厳然たる境界線があった。テレビは、公共の電波を預かる者として、厳格な裏取りと客観的な事実伝達という、社会的な責任を負っていた。一方、週刊誌は、時に踏み込んだ取材とセンセーショナルな表現で、販売部数を伸ばすことを主な目的としてきた。

ところが、今日のテレビはどうか。

政治家や芸能人の個人的なスキャンダルを、自社で深く検証することなく、週刊誌報道を情報源として大々的に扱う。事実よりも、当事者の表情や涙、劇的な効果音を用いた「物語」として事件を消費する姿勢が目立つ。視聴率至上主義が、報道機関としてのテレビから「客観性」と「公共性」という二枚の看板を剥ぎ取ってしまったかのようだ。

事実、インターネットが主要な情報源となる中で、テレビは危機感を覚え、手軽に視聴者の関心を引くことができる週刊誌的手法に逃げ込んだのかもしれない。しかし、その結果、情報の信頼性を担保すべきメディアが、単なる「話題提供装置」へと変質してしまった。

松本氏が「自由な表現」の場を地上波以外に求めたように、もしテレビがこのままスポンサーと視聴率の顔色をうかがうだけの存在になり、自らの報道倫理を見失い続けるならば、その社会的役割は急速に低下するだろう。

テレビ局は今一度、原点に立ち返り、「公共の電波で何を伝えるべきか」を問い直す必要がある。そうでなければ、視聴者はテレビという媒体自体に、静かに、そして完全に背を向けてしまうに違いない。