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タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
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【想(おもう)シリーズ】

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〈可哀想の想〉

「可哀想だね」と口にする時、
私たちは何を思っているのだろう。

“可哀想”の「想」は、「思う」と書いて“おもう”と読む。
ただの同情ではなく、“相手の悲しみを想像する”という行為だ。
つまり「可哀想」とは、本来、相手の痛みを自分の中で感じ取る想像力の言葉だった。

ところが現代では、この言葉が軽くなりすぎてはいないだろうか。
ニュースを見て「可哀想」とつぶやきながら、次の話題へとスクロールする。
本当に「想」しているのか——つまり、心の中でその人の痛みを受け止めているのか、立ち止まる必要がある。

「想」とは、“心の中に他者を住まわせること”。
見えない誰かの哀しみを、ほんの少し自分の中で感じてみる。
その一瞬が、人と人をつなぐ最も人間的な反応なのかもしれない。

可哀想とは、
同情ではなく、心の共鳴の言葉。
「想」を失えば、「哀」はただの言葉になる。



〈恋の想〉

恋とは、なぜ「恋(こい)」と書くのだろう。
「想(おもう)」の字が入っていないのに、
その正体は“想い”そのものだ。

恋とは、まだ届かぬ相手を「想う」こと。
会えない時間に、相手の笑顔を心の中で何度も再生する。
それは現実ではなく、想像の中で相手を生かす行為だ。
だからこそ恋は、実らぬときほど深く、
叶わぬときほど強くなる。

「想う」とは、心の内にもう一人の相手を住まわせること。
その存在を思い浮かべながら、自分の中の何かが変わっていく。
人は、誰かを想うことで、自分の輪郭を知るのかもしれない。

やがて恋は終わる。
けれど、想いは形を変えて残る。
優しさになり、祈りになり、時に生きる力にもなる。

恋の想とは、結ばれるための力ではなく、
人を“育てる”力なのだ。
想うとは、誰かを愛することで、
知らず知らずのうちに自分を耕しているということ。



〈母の想〉

母の想いほど、言葉にしにくいものはない。
「愛している」と言うよりも先に、
もう、そこにいるだけで祈っている。

母の想は、心の中に常に子を置きながらも、
手放すことを学ぶ想いである。
抱きしめては、離し、
守っては、見送り、
願っては、静かに見守る。
その繰り返しの中で、想いは深く、静かに熟していく。

子が幼い頃は“守る”想い、
大きくなれば“信じる”想いへと変わる。
やがて老いた母は、もう守ることもできず、
ただ「無事でいてほしい」と空に向かって想う。

母の想とは、見返りを求めない愛のかたち。
与え、失い、それでもなお与えようとする不思議な力。
それは、自然の摂理に最も近い心の働きかもしれない。

子が遠くに行っても、母の想いは届く。
声は聞こえなくても、心はどこかで応えている。
母の想とは、
「離れてこそ強くなる愛」。
目には見えないけれど、
人生のどこかで、必ず私たちを支えている。



〈未来の想〉

未来は、まだ形のない世界だ。
けれど、人はそこに何かを“想う”ことで、
少しずつ輪郭が生まれる。

未来を想うとは、占うことでも、
ただ願うことでもない。
「いま」をどう生きるかを定めるための、
静かな思考の灯火である。

未来を想う人ほど、
実は現実をよく見ている。
今日という一日を丁寧に積み重ねる人こそ、
遠くを見通す力を持つ。
逆に、未来を語りながら足元を見ない人は、
砂の上に家を建てるようなものだ。

未来の想とは、
「まだ起きていないことを心に描く力」。
それは希望であり、同時に責任でもある。
私たちが今流す一滴の涙も、笑いも、
どこかで未来の海につながっている。

だから、未来を想うとき、
誰かのせいでも、時代のせいでもなく、
自分の中の“これから”を見つめたい。

未来は遠くにあるのではない。
私たちが“想う”その瞬間に、
すでに静かに始まっているのだ。



〈自分への想〉

人は、誰かを想うことには慣れていても、
自分を想うことには不器用だ。

「もっと頑張れ」「まだ足りない」と、
自分を叱る声ばかりが心の中に響く。
けれど、自分を想うとは、
甘やかすことでも、逃げることでもない。
“いまの自分”をそのまま見つめ、
「よくここまで来たね」と静かに言える力のことだ。

他人の評価ばかりを追いかけると、
心はいつの間にか、他人の庭で迷子になる。
自分への想を失うと、
何をしても満たされず、
どこにいても落ち着かなくなる。

自分への想とは、
心に自分を迎え入れる行為である。
誰かを励ますように、自分にも声をかけてみよう。
「それでいい」「今日はここまで」と。

自分を想える人は、他人にも優しくなれる。
自分を愛せる人は、世界を信じられる。

他者への想いの原点は、
いつも「自分を想う」ことから始まる。
今日の空を見上げて、
自分の心にも、少しだけ光を差し込ませたい。



〈別れの想〉

人は生きていくうちに、
いくつもの「別れ」と出会う。
家族、友人、恋人、師——
そして、かつての自分とも。

別れとは、突然訪れる“静かな暴風”のようなものだ。
心の中をかき乱し、
大切なものを奪い、
残された者に「空白」を残す。

だが、時間が経つほどに気づく。
その空白の中にこそ、「想い」が残っていることを。
一緒に過ごした記憶、交わした言葉、
ふとした仕草までもが、心の奥で灯のように瞬く。

別れの想とは、
失った人を悲しむことではなく、
その人が残してくれた温度を、
自分の中に受け継ぐことだ。

別れは、終わりではない。
想いがある限り、
人は何度でもつながり直す。
姿は消えても、心の中に“在り続ける”。

そしてある日、
別れの痛みはやわらぎ、
感謝の静けさに変わる。

別れの想とは、
記憶を悲しみから希望へと変える力。
人生はそのくり返しの中で、
少しずつやさしくなっていくのだ。



〈世界の想〉

世界のどこかで、
今日も見知らぬ誰かが涙を流している。
私たちはそれをニュースで知り、
一瞬だけ胸を痛める。
けれど、画面を閉じれば、
その痛みはたちまち遠くへ消えていく。

それでも、人は“想う”ことができる。
会ったことのない誰かの苦しみを、
自分の心の奥で想像する力。
それが人間という存在の、最も尊い働きではないだろうか。

「想」は距離を超える。
国境を越え、時代を越え、
言葉さえ通じなくても、
“人の痛み”を感じ取る心は共鳴する。

世界の想とは、
「遠い誰かを自分の中に宿すこと」。
その想いが、見えないところで社会を支えている。
思いやりのない世界は、
どんなに技術が進んでも脆い。

未来を変えるのは、
力よりも、想像力だ。
「誰かのために何ができるか」と想う心が、
やがて世界をやわらかく動かしていく。

世界の想――それは、
ひとりひとりの胸の中に生まれる、小さな灯。
その灯がつながる時、
ようやく“人類”という言葉に、あたたかさが宿るのだ。