療養所の秘密
めいめいに病人が集められると、咳き込む者、痘痕のある者、頭のおかしい奴と病棟を分けられる。ベッドは並べて置かれていて、カーテンも無い。医師は数人だ。それぞれ担当の病棟を毎朝見て回る他は、看護師に任せられていた。
そこへある男が入院をした。子供の頃から男の薬を作っていた医師が、「専門の先生へ。大きくなってからも続くんじゃ、病は考えなきゃならん」と言った。
医師の手紙を手にして、男は荒屋で少ない銅貨を掻き集め、言われた通りの馬車道へ出た。
御者に銅貨をありったけ渡すと、御者は嫌そうに顔を歪める。隠しもしない。だが、〝どうせ一度きり〟と御者は思ったのだろう。男はきちんと療養所へ着いた。
療養所へ来るまで、男の毎日は大して楽しみはなく、たまの発作が心配なだけだった。畑も捗らない。
発作が起こると、酷く咳き込み息が出来なくなる。喉が渇くと息がひゅうひゅうと通らない。何度も〝もういけない!〟と思った。
そんな、すっかり元気を落としてきた男だ。男はすんなり入院して、されるがままに、毎日咳をするのに忙しかった。
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でも、入院してきてやっとひと月経ったという頃。
その日、男は具合が酷く悪く、夜の小用は看護師付きでとの医師の指示が出た。
目が覚め、男が枕元のベルを鳴らす。ティリリ、ティリリ、ティリリ。間違いかもしれないので、三回慣らさないと看護師は来ない。
しかしその晩に限って何の足音も物音もしないのだ。
そうこうしている内に腹の下がむずむず痛くなり、男は焦ってベルを鳴らした。しかし誰も来ない。
来ぬ内に、腹のむずむずが一旦引っ込んだ。男は部屋の窓を開けた。
〝せっかく夜に起きたんでぃ。今日の月を見ねぇとな〟
しかし夜風にぶるりと震えてくしゃみをした。それが良くなかったらしい。
「ごほっ、ごほん!…げほ……は、は……」
〝いけない!発作だ!〟
男の神経身体はいっぺんに死へと掻き立てられ、駆り立てられた。ぐぐぐと身を縮め、苦し過ぎて痛む胸を押さえる。
〝看護室へ行かなきゃ、やられっちまう!〟
暗い廊下を男が歩く。右手で胸を押さえ、立ち止まっては歩きしていた。自分の身体に何もかもが足りなくなっていく。胸と喉が痛くて堪らない。息をする度、薔薇の蔓でも通しているように思った。それでも男は看護室の前まで歩いた。
看護師は寝こけていたようだ。椅子には座っているが、テーブルへべっちゃり伏せ、顔だけを横に向けていた。羽根ペンを手に絶命したように、看護師は顰め面で寝ている。
男は看護師を起こそうとした。でも不意に、男の遥か後ろから、騒がしい笑いがどっと聴こえた。ような気がした。
〝あっちに居るのぁ、医者かもしんねえぞ〟
男は音目掛けて、また一歩ずつ進んだ。
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扉の向こうから灯りが漏れていたが、男はその扉へしがみついて、ずりずり地面へくずおれた。いつもの医師の話し声が聴こえる。
「かぁ…すけ…て…」
〝誰か助けて〟と言おうにも、喉がヒューヒュー突っかかり、声が出ない。力無く男は腕を持ち上げ、下に降ろす勢いで叩いた。ばぁん…ずりり、と中に聴こえたかはわからない。
しかしすぐに声が止み、中から一人医師が出てくると、あっという間に何人もが男を担ぎ上げ、その部屋のベッドへ寝かせた。
「せ…せ…」
「喋ってはいけない。君、決して喋ってはいけないよ。僕がする事を気にしないでくれたまえ。ちょっと診察だ。大分悪いようだね。…ふんふん、発作か。頷けたり首を振れたらお願いするが、服を脱いでいたりしたかね?」
男はヒューヒュー言いながら首を振る。いけないとは言われたが、医師が聞かないもので、こう喋った。
「ま、窓ぁ……」
「窓!ではこんな具合で夜風を吸ったのか!君。明日から夜に風に当たるのはよしたまえ。今だけだ。善くなるまでは、諦めてくれたまえ。死んでしまうぞ」
医師はそうまくし立てていたが、男はどうしても気になっていた。部屋中に、甘く、ほろ苦い、良い香りがする。
医師達が担架で自分を部屋に送り返してからも、男は気になっていた。考え続けていた。
何かが焦げ、しかし甘いような、紅茶とも違う妙な香りだった。
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その後男は、夜気や風を避けて、たっぷり食事をした。チーズが出れば食べられるだけ食べた。
退院の日、医師はちろちろとこちらを見ていた。
「君。これは治った訳ではないのだよ。夜気には晒されないよう。夕方には家に帰んなさい。喉が乾かないよう、しっかり食べなさい」
「ええ、わかりやした。お世話んなんましたぁ、先生」
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後々になっても男は考え続け、近頃流行りのコーヒーショップで働いている。時折は店を休むが、もう咳き込むのも少なくなったので、店長も安心していた。
男の働く店へある日、白髪で大柄な男がやってきた。男が店先を見た時、分かった。
〝先生だ!〟男は頬が熱くなり、胸が暖かくなるのを感じた。身体がうきうきと飛び跳ねるかもしれなかった。
男は、その医師の外出着は初めて見た。だが、白く豊かに太く、先っちょがぴょいと跳ねた髭。そして鋭く光る緑の目は、間違いようがない。何より、その医師はでっぷりと肥えて腰を気にしている。
男は後ろからこっそりその医師に近付き、「いらっしゃいましな」と声を掛けた。
医師は振り向いてからしばらくして、大いに驚いたように目を見開き、二度頷いた。
「働いているのかね」
「ええ。お陰様でなぁ」
「無理はいけないよ。それでは君、君の店にウイスキーは置いているかね?」
「下さるんで?」
「馬鹿を言いなさい。君は酒なんか飲んじゃあならない。私が珈琲に入れるのだ」
「へえ。贅沢なもんだでぇ」
男が、ウイスキーの小瓶とコーヒーカップをテーブルに運ぶ。男は席を離れようとしたが、特にやる事もないし、医師の背中を見ていた。
医師は緑色の背広を着ていた。帽子を椅子へ下げ彼は禿頭を晒していたが、前屈みになり、禿が向こう側へ消える。
背広の脇へはみ出た肉が盛り上がると、医師の右肘がつん出た。
ウイスキーの小瓶を丁寧に両手で抱えると、医師は、ちょい…ちょい…と少しずつ注いだ。温かな珈琲から、ふわりと甘ったるい香りが匂い立つ。それは、あの寒い夜に香った、甘ったるく苦い香り。それを見て男は「あっ!」と叫んだ。
医師はちょっと振り返ったが、男がぽかんと開けた口を片手で塞ごうとすると、〝何をしているのやら〟と首を捻り、前を向いた。
おわり