全てが奇跡であるなら、奇跡は存在しない
私たちはしばしば、「奇跡」という言葉を、雷に打たれて助かったとか、滅多にない幸運に恵まれたといった、「あり得ない特別な出来事」**に対して使います。それは、日常という名の「当たり前」の景色の中に、突如として現れる「非日常の例外」として、際立って輝くものです。
しかし、もし視点を変えて、あなたがおっしゃるように「元々全てが奇跡の連続である」と捉えたらどうなるでしょうか。
「当たり前」の分解
朝、目覚めること。心臓が規則正しく鼓動を続けていること。指先が意図した通りに動くこと。数十億キロメートル離れた太陽の光が、正確に地球に届き、生命を育んでいること。
これらは、物理学、化学、生物学、天文学の途方もない偶然と必然の連鎖によって、今この瞬間も維持されている、驚異的なバランスの結果です。
私たちを取り巻く全てを、この**「宇宙的な壮大さ」**から見れば、日常のどんな些細な出来事も、確率的には極めて低い、途方もない幸跡であると言えます。
奇跡の消滅
ここで、一つのパラドックスが生まれます。
もし、この世界の全ての出来事が「奇跡」だとしたら、その言葉はもはや特別な意味を持ちません。
奇跡とは、本来「奇跡ではないもの」——つまり「普通の出来事」との対比によって、その価値が生まれます。暗闇があるから光が際立つように、非日常があるから日常が定義されるのです。
全てを奇跡と呼んでしまえば、「普通の出来事」という枠がなくなり、全ての出来事が「普通」になってしまう。結果として、「奇跡」という概念はその輝きを失い、消えてしまうのです。
最終的な結論
「全てが奇跡の連続である」という思想は、**「この世界には奇跡と呼べる特別なものは存在しない」**という境地に私たちを導きます。
それは決して、この世界が色あせることを意味しません。
むしろ、私たちは「奇跡」という特別なラベルを貼らなくても、この世界で起きる全ての現象が、いかに途方もなく、いかにありがたい恵みであるかを再認識することができるでしょう。
太陽が昇ること自体が、もう既に最高の舞台設定。それに気づいた時、「奇跡」という言葉は不要になるのです。
作品名:全てが奇跡であるなら、奇跡は存在しない 作家名:タカーシャン