今夜だけ恋人
彼の名前を、私は知らない。
それでいいと思った。
バーの奥で、ふと目が合っただけ。
海を映したような瞳と、微かに残る雨の匂い。
都会の夜が人を孤独にすることを、互いに知っていた。
言葉を重ねる必要はなかった。
肩が触れ、呼吸が近づき、心臓の音が微かに重なったとき、
世界の輪郭は静かに溶けていった。
ホテルの部屋、
窓の外に濡れた街灯。
カーテン越しの月明かりが、
互いの影を薄く染める。
「何も聞かないで」
その一言が、合図だった。
触れるたび、名前を超えた温度が広がる。
指先だけが真実を知り、
瞼の裏に浮かぶのは、
言葉より確かな今だけ。
夜は深く、
それでも夜明けが近いことを
二人ともわかっている。
朝になれば、
彼は別の誰かへ戻り、
私も日常へ還る。
だからこそ、
この一瞬は永遠だった。
名もなき二人が、
ただ愛という熱で満たされていく。
名前も過去も未来もいらない。
今夜だけ恋人。
それがすべて。
一夜だけの出会いは、時に名前より深く、
明け方の光に溶けて、
永遠の記憶となる。