旅エッセイ 安土城 信長の呪い
彦根、安土と戦国武将コースで琵琶湖東岸へ。彦根に宿をとり琵琶湖畔を南北周遊。戦国武将関係の歴史好きな夫の趣味が反映されたプランニングなので彦根城や安土城跡、織田信長関係の資料館的なものを見て回る。
彦根城は慶長年間より着工され20年かけて築城されたという。焼失することもなく譜代の井伊家の城なので江戸時代を通じてしっかり維持管理されてきた。明治になって解体されそうになったらしいが明治天皇が保存を求めたという説があり、結果400年の歳月を経て今日国宝として残った。
一方安土城は信長没後焼失してしまったため周知のとおり安土山の石垣しか現存していない。のだが、資料館にいけば天守の一部分を再現したものが展示され、往時の絢爛豪華な金ピカの部屋が見られる。
安土山は石垣や階段などが残っているので上まで登ることができる。階段の下にはレンタル杖が置いてあり、「杖がないと登れません、ここでお持ちください」などと書かれていて自由に使えるようになっている。
とはいえ小雨がぱらついて傘を持っていたのもあり、なんとかなるだろう、と登り始めたのだが、階段の蹴上の高さがありすぎて登るのが容易ではないことがわかってきた。これでは信長を訪れたルイス・フロイスも大変だったことだろう。というか、築城も当然大変だが、完成後に食料を運んだり、出勤したりで上ったり下りたりするお城で働く人たちも大変だったことだろう。信長自身も途中まで馬で行くにしても、ある程度は階段を上らないわけにはいくまい。いくら殿様でもエレベーターはない。昔の日本人は体格も小柄なのに体力、脚力に関しては相当タフだったのだろう。現代人にはついていけない。
そして所々に説明があったのだが、この城を三年で完成させるため、信長は階段の材料となる石材を一気に大量に集めなければならなかった。そのために寺の石仏や墓石までもを使用したという。確かに仏像のような浮彫が見られる石が、横倒しにされ踏まれている。罰当たりなことを平気でやってのけるところが比叡山を焼き討ちした信長らしい。
もう少しで二の丸、というあたりになるとやたら薄紫のトリカブトの花が落ちていた。上に生えているのだろうか。なぜか花だけが地面に散らばっている。雨後の水たまりに猛毒の花がちりばめられているのは美しくも不気味な感じがする。周囲の泥は足跡だらけだ。天守閣のあったあたりからは街と琵琶湖を一望できるが、生憎の天気でぼやけている。
下りは違う道を使うようになっていた。こちらも大きな石段が曲がりくねっており、一足で降りられないので、幼児のように片足で飛び降りては足をそろえ、次の段に飛び降りて、を繰り返していたら衝撃で右足の股関節がてきめんに痛くなってしまった。途中から左右の足で交互に降りるようにしたのだが、あまりの痛さで動けず、先を行く夫に声をかけたが届かず、一人遅れてやっとこさ足を運ぶはめになった。誰かの墓石を踏んだのかもしれないと思うと、墓石の祟りのような気がして余計痛くなる。いやいや、これは信長のせいだからね、恨むなら信長を恨んでよね。
あまりに私が遅いので、道を間違えたかと焦った夫が戻って立ち止まったところにようやく追いついた。一歩ずつ時間をかけて降りなんとか駐車場にたどり着く。杖は登りではなく、下りの時に必要だったのだ。
なるほど安土城とはいかにも信長らしいエピソードに彩られた城だ。天正4年着工、天正7年に天守が完成、城郭全体は天正9年に完成、そして天正10年6月2日に本能寺の変が起こり6月15日に謎の放火で消失。
三年かけて作った城が三年使っただけで消失とはなんとももったいないことだ。誰が放火したのか知らないが、残しておけば秀吉が使ったかもしれないし、後に徳川が入ったかもしれないが、そのまま江戸時代を経ていれば今や立派な国宝や世界遺産になっていたかもしれない。惜しいことをしたものだ。
時を越えて残るのは石のみ。ピラミッドやギリシャ、ローマの建築物のように石造りであれば何千年も残るが、木造の城は焼失してしまえば結局石垣しか残らない。兵どもが夢のあと、である。
作品名:旅エッセイ 安土城 信長の呪い 作家名:鈴木りん