きづかいの くに
むかしむかし、「きづかいのくに」という国がありました。
そこにすむ人たちは、みんなとてもやさしくて、いつもまわりの人に気をつかっていました。
「いま、あの人、つかれてるかも」
「わたしのひとこと、気にしてないかな?」
「これを言うと、かなしくなるかも」
そんなふうに、いつもまわりの人の気もちを想像していたのです。
ある日、ちいさな女の子、ミナが言いました。
「ねえ、おとうさん。どうしてわたしたちは、人にだけ気をつかうの?
木には? 犬には? 石には? 風には?
どうして『ごめんね』って言わないの?」
おとうさんはしばらく考えて、いいました。
「うーん、たしかにそうだな。木はなにも言わないし、風も怒らないからなぁ」
でも、ミナはふしぎでした。
木だって、ふまれたらいたいかもしれないし、
犬だって、こわいときがあるかもしれない。
石も、風も、なにも言わないけれど、
それはしゃべれないだけなんじゃないかなって。
ミナはある日、森へでかけて、こう言いました。
「こんにちは、木さん。きょうも立っててくれて、ありがとう」
「石さん、ふんづけてごめんね」
「風さん、すずしくしてくれてありがとう」
すると――
木が、かすかに葉をゆらしました。
石が、ほんのりあたたかくなりました。
風が、やさしくミナのほっぺをなでました。
ミナは気づいたのです。
気をつかうって、こわがることじゃなくて、
たいせつに思うってことなんだ。
人にだけじゃなくて、
この世界ぜんぶに、たいせつな“いのち”がある。
気をつかうのは、そのいのちを見つける「魔法のこころ」なんだと。
その日から、「きづかいのくに」では、
人だけじゃなく、すべてのものに「ありがとう」がふえるようになりました。
だって、「気をつかう」ってことは――
だいじにしたいってこと。
愛してるってこと。
そして何より、自分も誰かに、そうされたいってことだから。
【付録】エッセイ
〈人にだけ、気をつかう理由〉
誰かと話すとき、私は言葉を選ぶ。
沈黙の間を気にする。表情を読む。相手の気分をうかがう。
でも、なぜだろう。
石には気をつかわない。
木にも、風にも、道ばたの小さな草花にも、気をつかって話しかけることは、ほとんどない。
人は、人にだけ、気をつかう。
それは、人が「傷つく」存在だからかもしれない。
言葉ひとつで心が沈み、態度ひとつで一日が台無しになる。
心という、見えない器を持っていると、知っているからだ。
動物にも植物にも命はあるけれど、
「どう思われたか」「失礼だったか」「嫌われたか」といった心のやり取りは、
基本的には人と人とのあいだで起きる。
だからこそ、気をつかう。
気をつかうことは、恐れでもあり、同時にやさしさでもある。
「相手を不快にさせたくない」「自分が嫌われたくない」
その両方が、たぶん同時に働いている。
でも、こんな見方もある。
人にしか気をつかわない、というよりも――
人に“しか”気づけないのかもしれない。
木や空や猫にも、本当は気をつかっていいのかもしれない。
その存在を尊び、気持ちを想像し、思いやること。
それができるとき、人は「人」だけでなく、「命」全体に気を配ることができるのかもしれない。
人に気をつかうのは、
人と生きることの証であり、
孤独を避けたいという本能であり、
何より、人としての“やさしさ”の一つだと思う。
ただ、「気をつかうこと」に疲れたときは、
空や風や草のような、無言の存在たちと過ごしてみるのもいい。
彼らは何も言わず、ただ、そこにいてくれる。
気をつかわなくても、すべてを受け止めてくれる。
そんな時間があるからこそ、
また人にやさしくなれるのだと思う。