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タカーシャ
タカーシャ
novelistID. 70952
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組織の中の孤独

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「組織の中の孤独」

国があり
地域があり
会社があり
自然界があり
身体があり

わたしは
その全ての
一部だった

だれかと
ともに生き
ともに働き
ともに笑い
ともに歩いた

けれど
最後の最後は
この身体の中の
ひとりのわたしと
向き合って
静かに息を閉じる

どれだけ
つながっていても
どれだけ
支えあっても

死は
孤独という名の
扉をひとりで開けること

それでも
生きるということは
その日まで
誰かの手を
にぎっていた記憶を
胸に灯すこと



「集合するもの、孤在するもの」

国家とは、
無数の意志を束ねる抽象。
地域とは、
記憶と慣習が染み込んだ土壌。
会社とは、
交換と効率に集う一時の群れ。
自然とは、
わたしの外にあるわたしの内なる原理。
身体とは、
わたしを囲む、最も近くて遠い檻。

それでも、
わたしは常に、わたしという点に収束する。

あらゆる組織に
所属しても、
あらゆる関係に
浸っても、

わたしの死に
誰も同伴できない。

思想も、
愛も、
制度も、
血も、

死の際(きわ)では
ただの風景となる。

孤独は悲しみではない。
それは、この宇宙に与えられた
「個」という構造の純粋形。

人はみな、
ひとりで死ぬ。
だが、それは
ひとりで生きたことを否定するものではない。

むしろ、
誰かと触れた記憶だけが
死の静けさをあたたかくする。




「誰もいない中心へ」

人は国家をつくる。
それは自己の不安を
外に投影し、枠を与えるため。

人は地域に住まう。
それは土と時間を
自分の延長と錯覚するため。

人は会社に属す。
それは自己の価値を
交換価値に変換するため。

自然界は、ただ在る。
わたしなど知らずに、在る。

身体は、借りものである。
五蘊の仮和合。
水、火、風、地、識——
どれも「わたし」ではない。

それでも、
「わたし」はここに在ると、
思い込んで生きている。


仏は言う。
「空(くう)とは、無いことにあらず。
 あると思うものが、実体を持たぬこと。」

すべては縁により生まれ、
縁により変わり、
縁により消える。

わたしが「わたし」と呼ぶものも、
一瞬たりとも同じ姿をとどめてはいない。

なのに
なぜ、わたしは「わたし」を守ろうとするのか。
何を「守る」と言っているのか。


宗教は語る。
「救い」とは、
何かにすがることではない。
「委ねる」とは、
自己を手放すことでもある。


死とは、
すべての関係の消失ではなく、
関係性そのものから
解き放たれる瞬間。

孤独とは、
断絶ではなく、
原初の構造。
在るということの、
最も純粋な形式。

わたしがいなくなるその時、
世界は少しも動じない。

だが——
「わたしではないすべて」が
「わたしを生かしていた」という事実だけが、
空(くう)に満ちて、
輝いている。

その輝きが、
わたしの本当の証。

わたしがいなくなる時、
ようやく
ほんとうの「わたし」になるのかもしれない。




「誰もいない中心へ――存在の構造と死の孤独について」

わたしたちは、生まれた瞬間から何かに「所属」する。
国に、地域に、家族に、学校に、会社に、宗教に、思想に。
「どこに属しているか」が、自己を定義し、「わたし」を輪郭づけてくれる。

しかし、そのすべてを通じて関係を築きながらも、
人生の最終局面において人は——つまり死において——
完全にひとりである。

その孤独を、どう理解すればよいのか。

それは、悲しみなのか。虚無なのか。あるいは、真理の露呈なのか。



存在の前提:わたしは、ほんとうに「在る」のか?

西洋哲学において、存在とはしばしば「主体」と「客体」の関係で語られてきた。
「我思う、ゆえに我あり」と言ったデカルトは、思考する主体の確かさを出発点とした。
しかし仏教哲学、とくに中観派(ナーガールジュナ)では、「存在」そのものの実体性を否定する。

この身体も、心も、意識も、実は因と縁(条件)がたまたま重なって「一時的に在る」だけのものだという。
五蘊(ごうん)——色(身体)・受(感覚)・想(イメージ)・行(意思)・識(認識)——
どれ一つとして「自性(じしょう)=変わらぬ本質」を持たない。

つまり、「わたし」は「あるように見える」けれど、「実体をもって在る」のではない。
これが、仏教でいう「空(くう)」の思想である。



孤独は、「分離」ではなく「本源」

多くの人は、孤独を「つながりの喪失」として恐れる。
しかし、仏教の眼差しでは、個体であること自体が、つねに「関係性の束」でしかない。

存在は相互依存(縁起)しており、
わたしがわたしであるのは、「わたし以外のすべて」によって定義されているということになる。

ならば、「孤独」とは何か?

それは「誰もわたしを理解してくれない」という感情ではなく、
**すべての縁がほどけていく瞬間に露わになる、構造としての孤在性(こざいせい)**だ。

この孤独は、もはや悲しみではない。
それは、存在そのものの最も純粋なかたちであり、
むしろ「死」がその純粋性を明らかにしてくれるのである。



宗教と「委ねる」ということ

宗教が説く「救い」とは、
なにかを得ることではなく、
むしろ**「執着を手放すこと」**に近い。

たとえば仏教における悟りとは、「この世のすべてに実体がないと見抜くこと」である。
そこには、自我への執着、他者への期待、死への恐怖すらも、自然と手放される。

「委ねる」とは、「逃げる」ことではない。
それは、在るものを在るがままに見て、抵抗をやめるという、深い知恵である。



死の本質と、生の真実

死とは、すべての関係が「消える」のではなく、
「つながりの構造そのもの」から解放されることだ。

そこにある孤独は、恐れるべきものではない。
それは、つねにわたしたちの本質にあったもの。
「誰もいない中心」へと帰っていくこと。

この理解があれば、生きている今、誰かと共に過ごすということも、
すべて「一時的な縁」による奇跡として、深く愛おしくなる。

孤独に死ぬことは、
誰にも踏み込まれない最後の尊厳であり、
それでも誰かとかつてつながっていた記憶だけが、
死の暗闇を、やさしく照らすだろう。



終わりに

「わたし」は実体ではなく、関係の結節点にすぎない。
それでも、わたしは確かに誰かと笑い、泣き、記憶を持ち、夢を見た。

死とは、
その結節点が静かにほどけていくプロセス。

わたしがいなくなることで、
ようやく、「わたし以外のすべて」が
何だったのかが、見えてくるのかもしれない。

孤独のなかに、
真理がある。
作品名:組織の中の孤独 作家名:タカーシャ