続編 ことばの灯台
人は過ちを繰り返す。
思いが足りず、言葉が過ぎ、
行動が未熟で、
あとから後悔する。
若き日々の過ちは、
ときに痛みとなる。
でもその痛みは、
人としての厚みを育てる。
迷い、ぶつかり、恥じる。
その繰り返しの中で、
人格という“かたち”ができていく。
だから、若さの過ちは恐れなくていい。
それは“未来”というキャンバスに描かれる成長の軌跡。
しかし、
年を重ねてからの過ちは、
重く、深く、消えにくい。
若さの盾も、未熟という言い訳も、
もう通用しない。
老いてなお同じ過ちを繰り返せば、
それはただの「恥」になる。
誰かの信頼を壊し、
自らを傷つけ、
積み上げてきたものさえ崩すかもしれない。
年齢とは、ただの数字ではない。
歩んできた分だけ、
責任と示すべき姿が伴う。
だからこそ、
過ちから目をそらさない。
過去に学び、誠実に生きることが、
言葉や行動に、静かな品格を宿す。
過ちは、光にもなる。
それを灯すか、
ただの影にしてしまうか——
それは、これからの選び方次第。
「赦しとは何か」
赦しとは、忘れることだろうか。
何もなかったことにすることだろうか。
いいえ——
赦しとは、痛みを抱えたまま、前を向くということ。
裏切られたこと。
傷つけられたこと。
思いもよらない言葉や態度。
その痛みは、時間がたっても消えない。
「赦す」とは、
その痛みをなかったことにすることではない。
むしろ、痛みを自分の一部として
そっと抱えながら、
「それでも進む」と決めること。
相手のためではなく、
自分のために赦すこともある。
憎しみや怒りを手放さなければ、
自分の心が壊れてしまうから。
だから赦しは、強さだ。
そして、静かな知恵でもある。
赦しは、和解とは違う。
赦しは、忘れることとも違う。
赦しとは、選ぶことだ。
過去に縛られ続けるのか。
それとも、痛みを携えたまま、
光の方へ向かうのか。
赦しは、
「わたしは、もうこれを握りしめない」と
自分自身に言い聞かせる灯火。
その灯火は、
静かに揺れながら、
心の奥であなたを照らしてくれる。
「ことばを背負う」
人は、ことばで傷つき、
ことばで救われる。
たったひと言が
生涯の痛みになることもあれば、
たったひと言が
人生を支える光にもなる。
それほどに、
ことばには力がある。
けれど、
その力を持つ者には、
それ相応の“覚悟”が求められる。
軽く放ったひと言が
誰かの心を壊すこともある。
優しさのつもりのひと言が
無意識に誰かを追いつめることもある。
だから、ことばを使う者は
ことばを背負わなければならない。
語るとは、
発するとは、
ただ伝えることではない。
「このことばは、私の人生が語らせている」
そう言えるほどに、
ことばと生き方が重なっていくこと。
誤解されても、
揺れても、
何年もかけて、
ことばを磨き直していく。
本物のことばは、
口先ではなく、
その人の“背中”から響いてくる。
だから、ことばを背負うとは、
その人自身の在り方を問うこと。
静かに、真っ直ぐに、
ことばの重さを受けとめたとき、
初めてそれは、
誰かの道を照らす「灯台」になる。