事実は写真であり、真実は心である ―心で見るということ―
―心で見るということ―
カメラのシャッターを切ると、そこにあった光景がそのまま残る。
泣いている人がいれば、その涙が写る。
笑っている人がいれば、その笑顔が写る。
街並みも、空の色も、影の角度も、すべて「事実」として記録される。
けれど、その一枚の写真を見て、
「なぜその人が泣いていたのか」
「その笑顔の奥にどんな想いがあったのか」
それを理解するには、カメラではなく、心のレンズが必要だ。
たとえば、災害の被災地で、ボロボロになった家の前に立つ人の写真があるとする。
それは「事実」だ。
でも、その人の心には何があるのか。
絶望かもしれない。希望かもしれない。怒りや感謝、あるいは静かな覚悟かもしれない。
それは写真には写らない。
心でしか感じ取れない「真実」がそこにある。
私たちは日々、無数の情報や映像に囲まれて生きている。
テレビやSNSで流れる「事実」は、あまりにも膨大で、あまりにも速い。
そして、ともすればそのまま飲み込まれ、「心」が置き去りにされてしまう。
だれかの言葉や行動の奥にあるものを、
目ではなく、心で受け取ろうとしたとき、
そこにはまったく違う風景が広がる。
怒っている人が、実は寂しかったのかもしれない。
無言の人が、実は何かを守ろうとしていたのかもしれない。
表面だけを見て判断していたことが、
どれほど浅かったかに気づくこともある。
「事実」は大切だ。
しかし、それはあくまで入り口にすぎない。
真実にたどり着くには、もう一歩、心を近づけることが必要なのだ。
写真に写るものを超えて、
その奥の“物語”に、耳をすます。
それが「人を理解する」ということなのかもしれない。
作品名:事実は写真であり、真実は心である ―心で見るということ― 作家名:タカーシャ