『っきり』の向こうに、愛がある
それっきり、会っていないね
あの日の駅の改札の前で
手を振ったきり、言えなかった「またね」
これっきり、もう連絡もしないと決めたのに
あなたの名前を見るたびに
心が勝手に揺れる
あれっきり、優しくされたことを
まだ、あたためてる
冬のポケットの中みたいに
はっきり、嫌われたわけじゃないけど
好きって言われたわけでもなくて
曖昧なまま、春が過ぎた
でもくっきり、覚えてる
あなたの笑顔と
『っきり』の向こうに、愛がある
「それっきり」「これっきり」「あれっきり」──
日常の中に、ふとした別れや断絶を感じさせるこの言葉たちは、
同時に、心のどこかに消えずに残る“愛の余韻”のようでもある。
あの人と会ったのは、それっきりだった。
偶然のような必然で出会い、ほんのわずかな時間を過ごして、
何も起きないまま、人生の表舞台から静かに消えていった人。
けれど、その「それっきり」の中に、何度も心が戻っていく。
まるで、もう一度続きを書きたがる作家のように。
これっきり、もう連絡はしない。そう思ってブロックしたスマホの画面。
けれど、その決意がぐらつく夜もある。
元気でいるのかな、と、ただそれだけが知りたい夜もある。
それでも連絡しないのは、自分の中で「終わり」を守っている証かもしれない。
愛が終わるとき、人は静かに、自分を守る壁をつくる。
あれっきり、優しくされた記憶が消えない。
特別な言葉を交わさなくても、
差し出されたコーヒー、寒さに気づいてくれた一言。
そういう小さな優しさこそ、なぜか一生、記憶の中で生き続ける。
「特別になりたかった」と願ったのは、ほんとうは
ただ「ちゃんと覚えていてほしかった」だけだったのかもしれない。
はっきり、言ってほしかった。
好きなのか、違うのか。
でも言葉にされなかったことは、
どこかで自分も望んでいたのだと思う。
はっきりしないからこそ、
人は何度もその曖昧さを反芻し、物語に変えてしまう。
くっきりと、残る笑顔がある。
その人が見せた横顔や、ふと見せた寂しさ。
愛とは、何かを持ち去ることではなく、
何かを“残していくこと”なのかもしれない。
記憶という名の宝石箱の中に、
誰かの声や視線が今でもくっきりと輝いている。
だから今、心はスッキリしない。
それでいいと思う。
愛はいつも、はっきりしないものだ。
終わったと決めた瞬間にも、
心のどこかでは終わっていない。
“っきり”という言葉たちは、
どれも断絶に見えて、実は未練であり、祈りでもある。
また会いたい、もう一度笑い合いたい、
それが無理なら、せめて幸せでいてほしい。
人生には、
それっきりで終わらなかった想いが
確かに、ある。
ずっとモヤがかかっていた心の奥。
すべてを言葉にすることも、きれいに手放すこともできずにいたけれど、
それでも、今日を生きている。
そして、霧が晴れる。
ほんの少しだけ、前が見える。
その先にあるのは、
過去ではなく、愛のつづきかもしれない。
作品名:『っきり』の向こうに、愛がある 作家名:タカーシャ