『もういい』に込められた思いとは
「もういい。」
このたった三文字に、どれだけの感情が詰まっているのだろう。
ただのあきらめ?投げやり?――いいや、それだけじゃない。
そこには、限界まで我慢した心の葛藤と、言葉にできなかった本音が、ぎゅっと詰まっている。
親しき仲こそ、遠慮がなくなる。気を許している分、傷つけ合ってしまう。
「わかってくれているだろう」「これくらい大丈夫だろう」
そうやって少しずつ積み重なっていった小さな棘(とげ)が、ある日、急に痛み出す。
そして心は、静かに壊れていく。
誰にも頼れず、自分の中だけで処理してきた怒りや悲しみ、不満や不安。
そんな日々のなかで、人はふと、心の扉を閉じる。
それが、「もういい」という一言になる。
それは、相手に向けられた言葉のようでいて、本当は自分自身への言葉なのかもしれない。
「もう、頑張らなくていい」「もう、傷つかなくていい」
心がこれ以上壊れないために、自分で出す“終わりの合図”。
けれど、その一言を言った瞬間から、周囲の反応は変わる。
「感情的だな」「大人げない」「めんどくさい人」
そうやって、また別のラベルが貼られる。
高みの見物をする人々は、安全な場所から誰かの崩壊を見ている。
「また誰かが壊れたな」
そんな冷めた空気の中、他人の足を引っ張って安心する人さえいる。
でも思うのだ。
「もういい」と言えるのは、実は強さかもしれないと。
すべてを押し殺して、耐え続けることだけが美徳ではない。
自分を守るために、一度立ち止まる。
壊れてしまう前に、離れる選択をする。
その勇気を、もっと尊重していいのではないか。
心は目に見えない。だから、折れた瞬間も見えにくい。
でも、誰の中にも、「もういい」とつぶやきたくなる瞬間はある。
だからこそ、わたしたちは想像力を持ちたい。
誰かの「もういい」の裏側に、どれほどの思いが隠されているのかを。
「もういい」
その言葉を、弱さの証明ではなく、尊厳の選択として受け止められる社会へ。
わたしは、そんな未来を願っている。
『もういい』に込められた思いとは (詩)
「もういい」
その一言に
何年分の我慢が
詰まっているのだろう
親しき仲こそ
遠慮も配慮もすり減り
いつしか境界線はぼやけ
限界が、来る
溜まりに溜まった感情は
優しさの仮面を割って
怒りも悲しみも
いっしょくたに叫ぶ
「もういい!」
それはただの絶縁の言葉じゃない
誰かを切る言葉じゃない
自分を守るための最終手段
ストレス社会の中で
押しつぶされた心が
最後に選んだ
唯一の防衛
それなのに
高みの見物を決め込む人々は
「感情的だね」と笑い
「大人げない」と指をさす
そしてまた、誰かが
心を壊されていく
引っ張り合う足の下に
誰かの叫びが埋もれていく
『もういい』に込められた思いとは (企業バージョン)
「もういいです」
たったこの一言の背後に、どれほどの感情が積もっているか、私たちはどれだけ想像できているでしょうか。
これは単なる「怒り」や「投げやり」ではなく、心の限界を超えた末に出る、静かな叫びです。
職場でもよくある「親しき仲」や「長い付き合い」。
それが時に、遠慮や配慮のない関係性を生み、無意識のうちに人を追い詰めてしまうことがあります。
「これくらい、いつものことだろう」
「この人なら、大丈夫だろう」
――そんな“当然”が、誰かの心のバランスを崩していきます。
我慢を重ねた人は、自分の中で葛藤し、苦しみを飲み込み、何度も自分を説得しながら働いています。
それでもある日、ぽつりと「もういい」と口にする。
これは、対人関係の断絶というよりも、自分自身を守るための最後の選択なのです。
けれど、その言葉が出た瞬間から、職場の空気が変わることがあります。
「感情的になっている」
「扱いづらい人だ」
「空気を読んでほしい」
そんな声が上がることも、現実としてあります。
しかし、そうした“高みの見物”が、実は一番危険です。
誰かの限界を見て見ぬふりをし、その人の背中をさらに押してしまう構造は、やがて職場全体の信頼や安心を崩していきます。
私たちは「もういい」という声に対し、責めるのではなく、耳を傾ける姿勢を持つべきです。
それは弱さではなく、これ以上壊れないための、本人なりの意思表示なのです。
今、ストレス社会といわれる中で、メンタルヘルスへの配慮は「特別な対応」ではなく、「当たり前の文化」であるべきです。
「限界になる前に話せる職場」
「話された時に否定しない職場」
その小さな積み重ねが、人を守り、チームを守り、企業を守ることにつながっていきます。
「もういい」と言わせないために、
「もういい」に気づける人であるために。
私たちは、今こそ“想像力”と“共感力”を研ぎ澄ます必要があります。
作品名:『もういい』に込められた思いとは 作家名:タカーシャ