『何かないの?』
夜のコンビニ帰り、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、何かないの?」
彼はポケットをまさぐる仕草をして、小さく笑った。
「え? 飴ならあるけど」
「……そういうことじゃなくてさ」
笑ったままの彼の横顔を見て、
彼女はそれ以上何も言わなかった。
二人は付き合って1年が過ぎていた。
一緒に過ごす夜も、休日も、だんだん「慣れた関係」になってきて、
優しさはあるけれど、ドキドキはもうなかった。
何か特別なものが欲しかったわけじゃない。
でも、気づいてほしかった。
仕事で疲れてるのもわかってる。
無理を言いたいわけじゃない。
だけど、ほんのひとこと、
「今日、可愛いね」とか「ちょっと抱きしめさせて」みたいな――
心を繋ぎ直すひとしずくが、欲しかった。
「何かないの?」
その言葉は、
「サプライズちょうだい」ではなく、
「今の私に、目を向けてくれてる?」という
静かな叫びだった。
でも、彼は気づかないふりをした。
たぶん本当は、気づいていたのかもしれない。
でも、それに向き合うのが少しめんどくさかったのだろう。
帰り道、二人は会話をしなかった。
部屋に戻ると、彼はテレビをつけて、
彼女は洗面所にこもった。
鏡の中の自分を見ながら、そっと唇を噛んだ。
たった一言、
彼が「どうしたの?」と聞いてくれたら、
それだけで心は救われたのに。
彼女はタオルで顔を拭き、何もなかったようにリビングに戻る。
「何か飲む?」
彼がそう聞いた。
「ううん、もう寝るね」
「そっか」
そのやりとりが、いちばん悲しかった。
まるで、少しずつドアが閉まっていくみたいに。
寝室のドアを閉めたとき、
涙がひとつ、音もなく枕に落ちた。
「何かないの?」
その問いの中には、
**「もう、わたしのことどうでもいいの?」**という言葉が、
隠れていた。
~沈黙の先にあるもの~
彼が眠ったあと、彼女はベランダに出て、煙草に火をつけた。
久しぶりの煙草だった。
彼と付き合い始めてから、やめていたのに。
静かな夜風が頬を撫でる。
東京の空は星が少ない。
でも、こんなふうにぼんやり空を見上げる時間は嫌いじゃない。
「何かないの?」と呟いた自分の声が、心の中で反響していた。
期待していたわけじゃない。
でも、何もないって、やっぱり寂しい。
──もう限界なのかもしれない。
そう思ったのは、この夜が初めてじゃなかった。
小さな違和感は、何度もあった。
それを見て見ぬふりして、笑って誤魔化して。
でも本当はずっと、愛情の残量を測るような日々だった。
朝になっても、彼はいつも通りだった。
「おはよう」と言い、「コーヒー淹れてくれる?」と笑う。
だけど、その笑顔はもう、彼女の胸に届かない。
それでも、彼女は最後の望みを込めて、聞いてみた。
「ねえ…最近、私たち、変わったよね?」
彼は、トーストをかじりながら、曖昧に笑った。
「え? そうかな。まあ、慣れてきたってことじゃない?」
彼女は微笑みながら、コップの水を一口飲んだ。
「うん、そうだね。慣れって、こわいね」
その週末、彼女は荷物をまとめた。
付き合い始めに一緒に選んだマグカップだけは残して。
彼が帰宅したとき、部屋は少しだけ静かだった。
テーブルの上には、手紙が置かれていた。
封筒はなく、白い便箋に淡い字で、こう綴られていた。
あの夜、わたしは「何かないの?」って聞いた。
本当に欲しかったのは、ものでも言葉でもなくて、
ただ、あなたの心だった。
気づいてたよね。たぶん。
でも、向き合わないっていう優しさを、あなたは選んだ。
わたしも、大人だから、もう責めない。
ただ、ここにいたら、きっと笑えなくなっていくから、
一歩先に、出るね。
ありがとう。大好きだった。
さようならの代わりに、
あのときのわたしの声を、
ずっと覚えていてくれたら、それでいい。
彼は、手紙を読み終えたあと、何も言わなかった。
ただ、マグカップをそっと両手で包み込み、
その中の冷めたコーヒーを、ゆっくりと口に運んだ。
苦かった。
でも、それが今のすべてだった。
〈余韻〉
別れの言葉を「ありがとう」と言える関係は、
きっと本物だった。
でも、本物だからこそ壊れることもある。
壊さずにすり減っていくより、
ちゃんと終わらせることの強さと誠実さを、この物語は描いています。