小さな波の音
宴会場の空気が、少しずつ重たくなる時間帯だった。
上司の長い話、気の利かない若手の冗談、
そして社長の隣で笑顔を浮かべる自分――
わたしは、少しずつ疲れていた。
ふと目に入ったのは、宴会の隅でひとり静かに飲んでいる彼。
名前は、たしか…中原くん。
部署は違うけど、よく真面目に頭を下げているのを見ていた。
今夜、初めてまともに話した。
同郷だと知ったとき、思わず口に出た。
「イントネーションでわかってもうたわ。あんた、うちらの人間やな」
彼は少し驚いたように笑って、
わたしのくだらない地元ネタにもちゃんと付き合ってくれた。
それが、ちょっと嬉しかった。
社内で誰かに心を許すなんて、もうないと思ってた。
歳も違うし、立場もあるし。
噂も多いし、わたしには“色気づいたら負け”みたいな空気がある。
けれど、その夜の彼は――
なんだか、安心できる空気を持っていた。
だから、つい言ってしまった。
「抜けへん? ちょっとだけでええから」
我ながら大胆だったと思う。
でも、あのときの私は、少しだけ誰かに甘えたかったんやと思う。
外は涼しくて、波の音がかすかに聞こえた。
わたしたちは言葉少なに歩いた。
それが心地よかった。
会話は続かない。
でも、途切れても気まずくない沈黙って、ある。
彼とはそれが自然だった。
砂浜に出たとき、靴を脱いで裸足になった。
久しぶりに、心がほどける感覚がした。
「こうして夜の海に来るとね、なんか、寂しくなくなるんよ」
わたしがそう言ったとき、
彼は黙って、でもちゃんとわたしの方を見てくれていた。
胸が少しだけ痛んだ。
この子に、わたしのなにを見せてるんやろう。
でも、気づいたら、
手が触れ合っていて、
わたしは一歩、近づいていた。
「キスしても、怒らへん?」
そう言いながらも、返事を待つつもりはなかった。
拒まれるなら、それも受け止めるつもりだった。
でも――彼は黙っていた。
それが「いいよ」と言ってくれてるように感じた。
そっと、彼の唇に触れた。
やさしくて、真面目で、
わたしにないものを持っている彼の、
まっすぐなぬくもり。
キスは短かった。
でも、それだけで十分だった。
この子と、なにかが始まることはない。
それは最初からわかってた。
でもあの夜だけは、わたしも「ただの女」に戻れた。
バツイチでも、社長に気に入られてても、
“強い女”じゃなくてもいい時間だった。
海の波が、記憶の奥で静かに響いている。
あの夜の温度を、誰にも話すことはない。
でもたぶん――
彼も、覚えていてくれる気がしている。
〈翌朝、彼女の心〉
朝が来た。
いや、本当は来てほしくなかった。
鏡に映る自分は、いつも通りの顔をしていた。
完璧に整えた髪、うすく仕上げたメイク、落ち着いたスーツ。
「部長が期待してるから」と社長に言われたときの、
“信頼される女”の顔を完璧に演じられるように。
昨夜のキスのことは、まるでなかったことのように。
そんなふうに思いながらも、
胸の奥にはまだ、彼のぬくもりが残っていた。
あれは、なんだったんやろう――
ひとときの気の迷い?
寂しさに負けたわたしの、弱さ?
いや、違う。
ちゃんと覚えてる。
彼の手が触れたときの、戸惑いが混じった真っ直ぐな温度。
わたしがそれに、心地よさを感じてしまったことも、
全部、忘れていない。
「おはようございます」
会場に入り、コーヒーを取って振り返った瞬間、
彼がいた。
他の社員に混ざって、いつものように、真面目な顔で。
目が合った。
ほんの一瞬。
けれど彼は、軽く微笑んで、小さく会釈した。
わたしも、何事もなかったかのように、
営業部の課長に話しかけながら、視線を逸らした。
それでいい。
わたしたちは“大人”だから。
今さらどうこうなる関係じゃない。
彼には、彼の道がある。
わたしには、わたしの立場がある。
社長の期待もあるし、会社という名の空気もある。
でも、もし今夜もまたあの海辺に行ったら、
わたしはまた同じことをするのだろうか。
「もう求めない」と決めていたのに。
ほんの少しでも、また彼に会いたいと思ってしまう自分がいる。
…バカやな。
自分にそう呟きながら、
わたしは、カップのコーヒーをひと口飲んだ。
その苦味は、昨夜の甘さを、
ほんの少しだけ、薄めてくれた。
〈別れの決意〉
コーヒーの苦味が、少しだけ胸に沁みた。
眠ったふりをしていた心が、静かに現実に戻ってくる。
宴会場の空気は、朝独特のざわつきと、旅の終わりの名残に包まれている。
そんな中で、彼はいつも通りの顔をしていた。
無邪気な同期と冗談を交わし、誰にも気づかれぬように。
あの夜、波の音に包まれて交わしたキス。
少し肌寒い風の中で触れた唇の温度は、
いまも確かにこの胸の奥で残っている。
でも――
これは、始まってはいけないことだった。
彼は若い。まだこれから。
これから先、いくつもの恋をして、傷ついて、強くなっていく。
その中に、わたしが入るべきじゃない。
「中原くん」
そう呼び止めたのは、解散直前のロビーだった。
彼は少し驚いた顔で振り返る。
「昨夜のこと、ありがとう。楽しかった」
その言葉を言いながら、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「でもね、これはここまで。お互いに」
彼はなにも言わなかった。
ただ、わたしの目をまっすぐ見ていた。
「仕事でまた顔合わすし、変に気を遣わんといてね。うちは大丈夫やけん」
強がりでもなんでもなく、それはわたしの覚悟だった。
このまま続けたら、彼を惑わせる。
わたし自身が、どこかで期待してしまう。
そんな甘さは、とうの昔に捨てたはずだったのに。
彼は、ゆっくり頷いた。
「……わかりました」
その声が少し震えていたのは、
きっと気のせいじゃなかったと思う。
ロビーを背にして歩き出した瞬間、
もう振り返らないと決めた。
彼との関係は、夜の波に預けてきた。
寄せては返す一度きりの波。
それでよかった。
わたしには過去がある。
傷もある。
社長の期待も、背負うものも、あまりにも多すぎる。
その全部から彼を守る力は、わたしにはない。
だから、離れる。
自分を守るためではなく、彼を守るために。
たとえ、心のどこかが寂しくてたまらなくても。