小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

愛の告白で「君のことが好きだ」と「君が好き」の違い

INDEX|1ページ/1ページ|

 
<和辻哲郎で考える>
この哲学者は「もの」は客観性を意味していて、「こと」は主観性を意味していると分析している。
「君のことが好き」は「君を主観的に考えると好き」 ということで、もしかすると「客観的に考えると好きになれないかもしれないが、主観的に考える限りにおいては好きなのである」という意味なのかもしれない。そのような恋愛は長続きすることはないであろう。とはいうものの恋愛には戦略も孫子の兵法もない「出たとこ勝負」である。そして敗戦を経て懲りた人は、武田信玄みたいな戦略家になる。恋愛は戦いである。
<ハイデガー哲学的に考える>
「君のこと」は「現存在としての君」を意味すると考えることもできる。
「現象学的な作用を経ていない私の認知の中で君が好き」と言う意味で、「直感的に言って君を好いている」という感じになる。それは「いろいろ考えた結論として君が好きだ」ということとは違うのであるが、人を好きになると言うのはそういうものであるという点で「恋愛特有の事情」を現している。
 大人になると、年収とか考え方とか性格とか生活習慣などたくさんの事を考えて好きだという幅広い判断がなされるであろう。「若い時」には失敗しても挽回できるから直感的に考えてどんどん告白するべきである。
 しかし、いい年した大人が「君のことが好きだ」というのは「現存在としての君が好きだけれど、情報を集積してメタ認知を経た結果の君を好きになれるかどうかはわからないんだよね」という意味になるかもしれない。「こと」が入るのは、一時的な遊びとして君のことを考えている、という意味にすら聞こえるのである。
<プラトン哲学的に考える>
「存在は多様性」という概念を「こと」に込めるなら「君のことがすき」とは「君の多様な存在性が好き」という意味とも考えられる。
「ぼくは酒のことが好きなんだ」という言葉はあまり聞いたことがない。酒はそのプラトン的な存在性も目的もかなり限定されているからである。酒は酔っぱらうのが目的のノミモノでそれ以上でもそれ以下でもない。
 しかし、恋は盲目である。恋に目がくらんだ人間が多様性を好きだと言っても、相手の存在多様性をすべて理解しているとはあまり思えない。妄想の多様性を示しているだけである。
 多様性を侮らずに現実的な考え方を熟成すべきだというプラトンがお勧めする生き方からは「こと」を空虚に使うことは許されない。つまり都合よく相手の存在性を自分勝手に規定して愛するという行為は許されないことなのである。そしてそれをやってしまう人が多いからから日本の離婚率は三割を超えるに至ったのである。他国の事情も似たようなものである。諸々の存在性を理解し、受け入れた上で「君のすべての存在性が好きなのだ」という意味で「君のことが好きだ」と言いきることがプラトン哲学的な告白である。
<木村敏をお勧めする>
 精神科医の木村敏が「時間と自己」という本で、英語フランス語では「こと」に相当する言葉はないと指摘している。あえて言うなら「こと」とは英語では接続詞のthat、フランス語のqueに相当するとのこと。またこれを起点として「こと」的な人生について語られていて興味深い。
<プラグマティズムから考える>
 メタ認知能力を高めて社会的に成功することを求めてやまないプラグマティズムの「アメリカ的善」からすると「君のことが好きだ」は許されない言葉である。「現存在の認識に留まって妄想の境地に行きましょう」などという「君のことが好き」など噴飯ものである。少なくとも「君が好きだ」と言う勇気がないからそんな愛の告白をするという腰抜けはお断りすべきであろう。
 プラグマティックなアメリカ人学者はハイデガーを徹底的に嫌う人が多い。「現存在」などとっとと捨て去り、メタ認知機能を鍛えるトレーニングで生産性を高めるべきだという意見には少なくともちょっとだけ耳を傾ける価値がある。 ハイデガーをより深く理解するためにも。相手を愛するためにも。
<ヘーゲル的に考える>
「告白」と言えば、なんと言ってもヘーゲルである。絶対知を否定したこの大哲学者は、カントに叱られる運命にあるが、「告白」こそ、絶対知の限界を乗り越えるすべと考えていたのである。赤の他人同士の境目に立ちはだかる万里の長城を越えるチンギスハーンの勢いをもって、立派な「告白」を敢行するべし。幸運を祈る。