サボテンと檸檬
東京
大失恋をしたというのにお腹は減るしきちんとした時間に目も覚める。
顔を拭くタオルや着る洋服は毎日洗濯をして明日にはまた違うものを使うのになぜ歯ブラシは使えなくなるまで使い続けるのだろう、と、本当にどうでもいいことや他のことを考えていないと頭が彼のことでパンクしそうだった。
毎朝、リビングで親の流すラジオを聴くのが習慣だが、今朝は父親の喋り声のせいで上手く聴き取れない。高校一年生になった妹はここ最近、急に髪の毛を巻くようになり甘い香りの香水なんかを付けるようになった。姉としてはその成長を喜ぶべきなのかは未だよく分からないけれど、自分もあんな頃があったんだな、と母の入れてくれた冷たい牛乳を飲みながら揺れるカーテンの影を見つめた。
私は食べ終えた食器をシンクに置き汚れを落ちやすくするためにお湯を溜め昨日と変わらない履きなれたスニーカーに足を運び陽の当たる外の世界へと飛び出した。
今日は土曜日のせいか街には人がいつも以上に溢れていて電車に乗り込むにも大変だったが空いているところを見つけ急いで座ると隣におそらく同い年であろう、赤いマフラーを首にふんわりと巻き付けた男性も同時に座ってきた。膝の上には紙袋を置きイヤホンをしている。彼女へのプレゼントだろうか。なんだか心がこそばゆくなり私はゆっくりと前を向いた。
実は、サボテンを借りたその夜、「緋牡丹」の特徴を調べて心底ガッカリしていたのだった。
他のサボテンとは違い、どうやらひとりでは生きていけない植物らしい。
もしそのことを知っていて、彼女が彼の家にサボテンを置き去りにしたのだとしたら…。
なんて意味のない嫉妬をすることもこれからはなくなるし、例えわざと置いていったのだとしても今までも、これからも、私には何の関係もないことだ。そんなことをモヤモヤと考える必要もないのだ。
ずっと、ただの友人のままに変わりはないのだ。
どうしようもない気持ちをぶつけるために新聞紙に包んできたサボテンの花瓶をコツン、と優しく叩いた。
渋谷駅で降りると私は小走りであのカフェへと向かった。
家に帰ってから気付いたのだが、「携帯のマップに表示されない」このお店のことが気になって仕方がなかった。
「こんにちは。」
重たいドアを開けるとカウンターからひょこっと顔を出してこちらを見つめているオーナーの奥さん、日和さんがいた。
「あら。あなた確か昨日も…。」
会計の時、少し話をしただけにも関わらず覚えていてくれたことに感動をし思わず「はいっ!」と勢いよく返事をしてしまい笑われてしまった。
「元気ねえ。見ての通り今日は空いていて。お好きな席でゆっくりしていってね。」
と、優しい笑顔で迎えてくれた。
「檸檬ケーキと紅茶で。」
「かしこまりました。」
このカフェには不思議な時間が流れている気がする。
時を止まらせているような、とまではいかないがそれに近い何かを感じてしまう。
それだけ他とは違う「異空間」な時間を感じさせてしまう場所だった。
しばらくすると日和さんが私の元へと頼んでいたものを運びに来てくれた。
「昨日の彼は?今日は一緒じゃないの。」
やっぱり聞かれるよな、と思い
「もう来ることはありません。」
と、だけ答えた。
空笑いをする私から何を察したのかは分からない。
日和さんは空いている向かいの席にゆっくりと腰を掛け何度も何度も私の頭を撫でた。
「愛はね、自ら終わらせるものじゃないの。
そんなことをしなくたって、いずれ消えてなくなってしまうから。」
家族よりも、友人よりも、昨日会ったばかりで何にも私のことを知らないはずなのに日和さんの手は表に出せずにいた私の感情全てを優しく包み込んでくれた。
「そんな哀しいことはもうしないで。」
私はサボテンの入っていた花瓶を日和さんに渡した。
花を育てるのは苦手だからもうきっとこの先、勢いでは育てない。
それなら一層、赤の他人にまた新しい花をこの花瓶の中で大切に育てて欲しいと思った。
店内にはたくさんの種類の花が飾られてあったので日和さんは花がすきなのだろうなと昨日と何ひとつ変わらない味の檸檬ケーキを食べながらひとり考えていた。
「また恋に落ちるひとに出会うから大丈夫よ。」
その言葉はどこか切なくて、それでも私の心を確かに満たしてくれるものだった。
「また来ます。」
相変わらずこの街では歩く人々のスピードが尋常ではないしぶつかっても謝りもしない。
みんな自分のことばかりで嫌になってしまう時もあるけれど、それも含めていずれ「思い出」になってしまう。
私はドアを力いっぱい押し空気を大きく吸い込んだ。
春へと向かう東京の空気に混ざり込んだ檸檬の香りだけが、小さな身体の中へと溶けて消えていった。