赤い涙(改稿バージョン)
1.見知らぬ洋館
学校への近道の急な坂を自転車で上っていた昂は、その坂の中ほどに今まで見たこともない家が忽然と建っているのを見つけた。いくら昨今建築技術が向上したと言っても、一朝一夕でそんなものが建つとは思えないし、その建物は昨日今日出来上がったような新しいものではなく、建ってからおよそ百年は経つのではないかというような古めかしい洋館だった。
(まぁ、どうでもええか。俺が住んでる訳やないし)
昂はそう思いながらそこを自転車で通り過ぎようとした。
その時、庭に続く扉が開けられ、そこから自分と同じくらいの年恰好の少女が現れた。彼女は昂を見ると、ご丁寧に45度の角度でお辞儀をして、
「おはようございます。今日はよい天気ですね」
と言った。昂は自転車を停めて空を見上げた。確かに空は泣いてはいないが、そんなに上天気と言うほどでもない。それから昂は徐に挨拶の主の少女を見た。
「お、おはようございます…」
(か、かわいいやん…)
白く陶器のような肌に、長いまつげ、黒目がちな瞳、まるでアンティークドールが実体化したかのようなその容姿に、彼はつっかえながら挨拶を返した。しかし、少女はそれに対して見向きもせず、黙々庭にと水を撒き続けている。
(は?!自分から声かけたんそっちやろ。声かけたまんまでスルーかよ)
「なぁおたく、最近引っ越して来たん?この辺家なかったと思うんやけど」
(そう、昨日まではなかったはずや…)昂はそう思いながら少女に尋ねた。
「私はずっとここに住んでいますが。ただ、3か月以上前の事は分らないのです。お兄ちゃんに引っ越ししたとは聞いておりませんので、それまでも住んでいたとは思われますが」
昂の質問に少女はこの辺の方言ではない極めて標準的なアクセントで、事務的にそう答えた。(記憶喪失やったらしゃーないなぁ)昂はそう思ったものの、何だか釈然としない。ならばと、彼は奥の手を使うことにしたのだが…
「う、うそやろ?!」
思わず、彼の口からそんな言葉が出た。彼女を瞠る彼の瞳孔は開いていたかもしれない。
なぜならその少女の感情が、テレパスの彼に片鱗すらも感じられなかったからだ。
記憶を失う三か月以前のものはともかく、たったいま現在の感情すら見えないのはどうしたことか。動機は彼女自身が忘れてしまっている三か月以前の記憶を引き出すことが出来るかも…などという、ちょっとした“助平心”からだったのだが。それだけに最初から、深層心理まで覗きこむようにぐっと意識を集中していた、なのにである。普段は他人の感情に振り回されることになるので、意識して読まないようにしているくらいなのだ。それでも、多感な時期の少年少女たちからは、そんな彼の努力すらもふいにしてしまう程、感情を爆発させてくることが多いというのに。
少女はどう見ても中学生以下ではない。あるいは自分と同じ高校生か…
(そんならこの娘、俺とおんなじ能力持ってるんか?)
相変わらず少女が水を撒き続ける中、昂はその場にフリーズして立ち尽くした。
「樹、樹?どこに居るんだ」
その時、洋館の中から少女を呼ぶ声がした。
「ここです」
その声に反応して一人の20歳くらいの青年が出てきた。
「駄目じゃないか、断りもなく庭に出ちゃ」
青年はそう言いながら、どうも樹と言う名前らしい少女の頭を優しく撫でた。
「お兄ちゃん、今は水やりの時間だと思われますが」
そんな兄を見上げて樹はそう答えた。お兄ちゃんと呼ぶ割には、その受け答えは何か会社での報告を思わせる。
「あ、そう言えばそんな時間か。それでも、外に出るときにはそう言って出て欲しいな。心配するから」
そんな樹に、彼女の兄はまるで幼い子に諭すようにそう言った。記憶がなくなった経緯はわからないが、自宅前に出るのも心配するのは少々過保護なのではないか、(そんなことしたったら、樹ちゃん窮屈やないか)昂は少し憤慨しながら、今度は兄の心を覗いてみようと試みた。しかし、樹同様兄の方も全くと言って読む事が出来なかったのだ。
(もしかしたら、俺の能力の方が消えてしもたんかも…)
昂は、日頃からこの能力について苦々しく思っているにもかかわらず、焦っている自分がいるのを感じた。
そして、尚も意識を集中させると、彼らとは別の方向から“声”が飛び込んできた。
(あかん、遅刻しそうや!!お母さん、朝ごはんなんか要らんのに…)
そしてその“声”のする方を見ると、近くの女子高の制服をきた生徒が、自転車を漕ぎながら血相を変えて坂を上っているのが遠くに見えた。
(あの子の“声”はあの距離で聞こえてくる。やっぱり俺がおかしなった訳やない)
昂はホッとして再び兄妹の方を見て…ギョッとした。いつの間にか樹の兄が自分に気づいて自分の事を睨んでいたからだった。普段は殺気の方が先に自分のところにやってくるので、それからその方向を確認する感じだから、顔を見るまで睨まれていることに気付かないのは初めての経験だった。
「君は誰だね、ここで何をしている」
続いて彼にそう言われた。それで昂はペコっと首だけで会釈すると、
「あ…俺、I高2年の根元昂です」
「それで、そんな高校生が一体ここで何をしてるというのだ」
相手は明らかに迷惑そうにそう質問してきた。
「あの…妹さんが俺に挨拶してくれたから、いつ引っ越してきたんかなぁと思て、妹さんに聞いてたんです。ここに家なんかなかったと思うから」
「失敬な!僕たちは生まれた時からここに住んでいる!!何を証拠にそんな言いがかりを付けるんだね」
そんな昂の言葉に相手は明らかに狼狽えた様子でそう叫んだが、甲高い叫び声とは裏腹に、感情の方は些かも伝わってはこなかった。
やはり、同じ能力者…しかも自分よりは数段上のレベルなのかもしれない。
(せやけど、失敬なとかちょっとおっさんくさいしゃべり方やな)
昂がそんなことを思って、少し頬を緩ませた時、
「それより君、制服姿のようだが、学校には行かなくていいのか」
樹の兄は相変わらず不機嫌そうにそう言ったので、昂ははめている腕時計を見た。
「あ…」
もうすぐ授業が始まる時間になっていた。
(そう言うたら、さっきの女の子遅刻するって言うてたもんなぁ。あの子の学校の方が、ウチより近いし。やばっ、今から行っても完全に遅刻やん)
「早く行かないと、遅刻するんじゃないのかい。早く行きたまえ」
樹の兄は苦々しげに昂を追いたてた。
「あ、ああ…どうも…」
昂は再度軽く会釈すると、去り際、
「なぁ、君…何樹ちゃんって言うの?」
と尋ねた。
「私の名前ですか。私の名前は笹川樹です。お兄ちゃんの名前は笹川京介です」
と、抑揚なく兄の名前まですらすらと昂に告げた。
「樹、見ず知らずのこんな奴に…僕の名前まで教えなくていいんだ!!」
すると樹の兄−笹川京介は、樹に向かって苛立った様子で声を荒げた。
「お兄ちゃん、聞かれた質問には答えるのが正しいのではないのですか」
それに対して、樹は兄をそうたしなめた。相変わらず感情のこもらない言い方ではあったが、それでも昂には樹が自分の味方についてくれているような気がして、なんだか小気味良かった。
そして、昂は樹に手を挙げてまた自転車を漕ぎ始めた。
作品名:赤い涙(改稿バージョン) 作家名:神山 備