死刑囚の視点(③江藤麗)
3.江藤 麗
彼方のビルに潰れていく夕陽を、孝之さんは病室のベッドから黙って見つめていた。後ろに座っている私は、もう半分以上が白髪に覆われたうなじや、皺が寄りくたびれた寝間着の背中に触れてみたいと、本気で思った。孝之さんは、私が勤めるお弁当屋さんの経営者で、私たちの歳は、私と、私のお父さんくらい離れていた。
その時の私はまだ、自分の中に湧き上がる感情の意味を上手く掴めていなかった。得体のしれない生物の魅力に、自分だけが気づいてしまったような感じ。面会者用の椅子から少し身を乗り出した時、孝之さんが私を振り返る。
「麗ちゃんが来てくれて良かったよ」
不意に向けられた笑顔に、私はドキッとした。細かい皺が刻まれた額には、いつも整髪料でととのえている前髪が二、三本ぱらぱらと落ちている。
「妻は、用があって息子と実家に帰っているから」
私は孝之さんのくたびれた笑顔から、白い包帯によって吊るされた孝之さんの右足に視線を移す。孝之さんは経営するお弁当屋さんの配達中に、運転していたバイクで転倒して右足を骨折してしまった。
「どうして」
私の中で鼓動は止まない。心臓はまだ、耳の奥で生々しく、激しく脈打っている。
「舞子さんは実家に帰ってしまったんですか?」
私の問いに、孝之さんは困ったように笑う。舞子さんは孝之さんの奥さんで、お店では主にレジ打ちを担当していた。私はお弁当の盛り付け担当。調理係の孝之さんと、レジ打ち係の舞子さんを失ったお弁当屋さんは今、休業状態になっている。
孝之さんが一番大変な時に、どうして。
「夫婦にはね、色々とあるんだよ」
そう言ってうつむくと、布団をぎゅっと手繰り寄せた孝之さんの指に、濃い影が落ちる。
「まだ若い麗ちゃんには関係のない話だよ」
孝之さんに私は言い返したかった。わたし、もう20歳ですよ。
でも、私は何も言わなかった。大学受験に失敗して、もともと好きだったアニメ制作系の専門学校に通ってみたけれど、そこでも挫折して……専門学校を辞めてからは実家の部屋に引きこもっていた私を社員として雇ってくれたのが孝之さんだった。高校でも不登校気味だった私を心配した担任の先生が、知り合いの孝之さんに私を紹介してくれたのだ。
私はこれ以上、孝之さんを困らせたくなかった。お母さんがお見舞いの品として持たせてくれた果物の籠を置いて、私は椅子からすくっと立ち上がる。
「明日も来ます」
孝之さんのケガはなかなか治らなかった。病院を退院してからもすぐに厨房に立つことはできず、お店は3か月以上も休業の状態が続いた。
私は孝之さんに「二人でお店を再開しましょう」と提案した。フライヤーで作る唐揚げ弁当やコロッケ弁当などのメニューであれば座って調理できないことは無いし、私が盛り付けとレジ打ちも担当すれば、何とかやっていけると思っていた。でも、孝之さんは首を横に振った。孝之さんはまだ、舞子さんが戻ってくると信じているみたいだった。私は黙って頷いたが、歯がゆかった。
お店の休業中、今は孝之さんが一人で暮らしているアパート近くの公園で、私は孝之さんのリハビリを手伝った。子供たちがいないお昼の時間帯を見計らって、孝之さんは鉄棒などの遊具を使って立ったり、しゃがんだりする動きを繰り返した。立ち上がりが出来るようになると、次は厨房内を歩き回るためのリハビリ。入院生活と加齢のために筋力が落ち、ちょっとでも気を抜くと崩れ落ちそうになる孝之さんの身体を支えている時、私の胸はやはり激しく鳴っていた。私のそういう反応を、孝之さんは私が疲れて息が切れていると勘違いした。その度にリハビリは中断し、私たちは公園のベンチに座って、私のお母さんが作ってくれたレモンティを飲みながら休んだ。
「へえ~、今の子はそういうのが好きなんだ」
私がカバンにつけている男の子のキャラクターのバッチを、孝之さんは不思議そうな表情でのぞき込む。私はべとつく唇の周りを舐めながら、近づいてくる孝之さんの表情を見つめる。口の中に、レモンティの甘酸っぱい味が広がっていく。それは私と、孝之さんの日々を象徴する味のようだった。
ある日、いつものようにベンチに二人で座っている時、私は孝之さんの指先にそっと触れてみた。孝之さんは弾かれたように手を引き、驚いた表情でこちらを振り返る。私は傷ついた。でも、仕方がないのかもしれない。だって、私と孝之さんの歳は、私と私のお父さんくらい離れていたから。私が孝之さんの指に、たまたま触れただけ、と勘違いさせないよう、私はもう一度、孝之さんの手を上から掴み、孝之さんの目をじっとのぞき込む。
「好き、です」
私のカラカラに乾いた喉から、カサカサに乾いた声が出た。孝之さんの眉間に、かすかな皺が寄る。
「愛してます」
恋愛経験がない私には、この場面で、この言葉で果たして合っているのか分からなかった。いつも見ているアニメでは、カッコいい男の子の方から告白してきてくれるのに。
孝之さんの太い眉と眉の間に浮いた皺が深く、濃くなる。それでも、私は自分の中に閃く想いだけを信じ、もう後戻りが出来ないように少しずつ、震える指先を、孝之さんの汗ばんだてのひらから、ズボンの太ももに移していく。自分の想いを信じて、もう後戻りが出来ないように。
孝之さんは、太ももに置かれた私の指を掴んで、そっと外した。そして、私の硬直していく顔に向かってほほ笑んだ。
「さあ!早く足を直さなきゃな~」
そう言って伸びをしながら立ち上がると、勢い余って孝之さんは地面に転倒してしまう。
「テテッ……」
尻餅をつくと笑っている孝之さんに、私は手を貸さなかった。
孝之さんがけがをしてから半年が経った頃に、妻の舞子さんが実家から戻ってきた。
「私がいない間に、麗ちゃんが旦那のリハビリを手伝ってくれてたんだってね~」
舞子さんは、私に夫のリハビリを手伝わせてしまったことと、半年も店を開けなかったことを謝った。そのあいだ実家に帰っていた理由は「体調を崩した親の介護のため」と説明した。
でも、私は嘘だと思った。舞子さんが半年も帰って来なかったのは、やはり、舞子さんと孝之さんの「夫婦の問題」だったのだと思う。
私は悪い夢を見ていたのかもしれない。
それから私は、自分のお父さんと孝之さんの姿を重ねてみるようにした。仕事から帰ってくると疲れた表情でビールをあおっているお父さん。テレビをつけっぱなしのままソファで寝てしまうお父さんの、てっぺんが薄くなった頭。孝之さんは、私のお父さんの二つ年下で、白髪交じりの頭はまだフサフサとしているけれど、私に責められると困った笑顔で逃げようとする姿は、私のお父さんとそっくりだった。
「なんで、あんなのが良いんだろう」
彼方のビルに潰れていく夕陽を、孝之さんは病室のベッドから黙って見つめていた。後ろに座っている私は、もう半分以上が白髪に覆われたうなじや、皺が寄りくたびれた寝間着の背中に触れてみたいと、本気で思った。孝之さんは、私が勤めるお弁当屋さんの経営者で、私たちの歳は、私と、私のお父さんくらい離れていた。
その時の私はまだ、自分の中に湧き上がる感情の意味を上手く掴めていなかった。得体のしれない生物の魅力に、自分だけが気づいてしまったような感じ。面会者用の椅子から少し身を乗り出した時、孝之さんが私を振り返る。
「麗ちゃんが来てくれて良かったよ」
不意に向けられた笑顔に、私はドキッとした。細かい皺が刻まれた額には、いつも整髪料でととのえている前髪が二、三本ぱらぱらと落ちている。
「妻は、用があって息子と実家に帰っているから」
私は孝之さんのくたびれた笑顔から、白い包帯によって吊るされた孝之さんの右足に視線を移す。孝之さんは経営するお弁当屋さんの配達中に、運転していたバイクで転倒して右足を骨折してしまった。
「どうして」
私の中で鼓動は止まない。心臓はまだ、耳の奥で生々しく、激しく脈打っている。
「舞子さんは実家に帰ってしまったんですか?」
私の問いに、孝之さんは困ったように笑う。舞子さんは孝之さんの奥さんで、お店では主にレジ打ちを担当していた。私はお弁当の盛り付け担当。調理係の孝之さんと、レジ打ち係の舞子さんを失ったお弁当屋さんは今、休業状態になっている。
孝之さんが一番大変な時に、どうして。
「夫婦にはね、色々とあるんだよ」
そう言ってうつむくと、布団をぎゅっと手繰り寄せた孝之さんの指に、濃い影が落ちる。
「まだ若い麗ちゃんには関係のない話だよ」
孝之さんに私は言い返したかった。わたし、もう20歳ですよ。
でも、私は何も言わなかった。大学受験に失敗して、もともと好きだったアニメ制作系の専門学校に通ってみたけれど、そこでも挫折して……専門学校を辞めてからは実家の部屋に引きこもっていた私を社員として雇ってくれたのが孝之さんだった。高校でも不登校気味だった私を心配した担任の先生が、知り合いの孝之さんに私を紹介してくれたのだ。
私はこれ以上、孝之さんを困らせたくなかった。お母さんがお見舞いの品として持たせてくれた果物の籠を置いて、私は椅子からすくっと立ち上がる。
「明日も来ます」
孝之さんのケガはなかなか治らなかった。病院を退院してからもすぐに厨房に立つことはできず、お店は3か月以上も休業の状態が続いた。
私は孝之さんに「二人でお店を再開しましょう」と提案した。フライヤーで作る唐揚げ弁当やコロッケ弁当などのメニューであれば座って調理できないことは無いし、私が盛り付けとレジ打ちも担当すれば、何とかやっていけると思っていた。でも、孝之さんは首を横に振った。孝之さんはまだ、舞子さんが戻ってくると信じているみたいだった。私は黙って頷いたが、歯がゆかった。
お店の休業中、今は孝之さんが一人で暮らしているアパート近くの公園で、私は孝之さんのリハビリを手伝った。子供たちがいないお昼の時間帯を見計らって、孝之さんは鉄棒などの遊具を使って立ったり、しゃがんだりする動きを繰り返した。立ち上がりが出来るようになると、次は厨房内を歩き回るためのリハビリ。入院生活と加齢のために筋力が落ち、ちょっとでも気を抜くと崩れ落ちそうになる孝之さんの身体を支えている時、私の胸はやはり激しく鳴っていた。私のそういう反応を、孝之さんは私が疲れて息が切れていると勘違いした。その度にリハビリは中断し、私たちは公園のベンチに座って、私のお母さんが作ってくれたレモンティを飲みながら休んだ。
「へえ~、今の子はそういうのが好きなんだ」
私がカバンにつけている男の子のキャラクターのバッチを、孝之さんは不思議そうな表情でのぞき込む。私はべとつく唇の周りを舐めながら、近づいてくる孝之さんの表情を見つめる。口の中に、レモンティの甘酸っぱい味が広がっていく。それは私と、孝之さんの日々を象徴する味のようだった。
ある日、いつものようにベンチに二人で座っている時、私は孝之さんの指先にそっと触れてみた。孝之さんは弾かれたように手を引き、驚いた表情でこちらを振り返る。私は傷ついた。でも、仕方がないのかもしれない。だって、私と孝之さんの歳は、私と私のお父さんくらい離れていたから。私が孝之さんの指に、たまたま触れただけ、と勘違いさせないよう、私はもう一度、孝之さんの手を上から掴み、孝之さんの目をじっとのぞき込む。
「好き、です」
私のカラカラに乾いた喉から、カサカサに乾いた声が出た。孝之さんの眉間に、かすかな皺が寄る。
「愛してます」
恋愛経験がない私には、この場面で、この言葉で果たして合っているのか分からなかった。いつも見ているアニメでは、カッコいい男の子の方から告白してきてくれるのに。
孝之さんの太い眉と眉の間に浮いた皺が深く、濃くなる。それでも、私は自分の中に閃く想いだけを信じ、もう後戻りが出来ないように少しずつ、震える指先を、孝之さんの汗ばんだてのひらから、ズボンの太ももに移していく。自分の想いを信じて、もう後戻りが出来ないように。
孝之さんは、太ももに置かれた私の指を掴んで、そっと外した。そして、私の硬直していく顔に向かってほほ笑んだ。
「さあ!早く足を直さなきゃな~」
そう言って伸びをしながら立ち上がると、勢い余って孝之さんは地面に転倒してしまう。
「テテッ……」
尻餅をつくと笑っている孝之さんに、私は手を貸さなかった。
孝之さんがけがをしてから半年が経った頃に、妻の舞子さんが実家から戻ってきた。
「私がいない間に、麗ちゃんが旦那のリハビリを手伝ってくれてたんだってね~」
舞子さんは、私に夫のリハビリを手伝わせてしまったことと、半年も店を開けなかったことを謝った。そのあいだ実家に帰っていた理由は「体調を崩した親の介護のため」と説明した。
でも、私は嘘だと思った。舞子さんが半年も帰って来なかったのは、やはり、舞子さんと孝之さんの「夫婦の問題」だったのだと思う。
私は悪い夢を見ていたのかもしれない。
それから私は、自分のお父さんと孝之さんの姿を重ねてみるようにした。仕事から帰ってくると疲れた表情でビールをあおっているお父さん。テレビをつけっぱなしのままソファで寝てしまうお父さんの、てっぺんが薄くなった頭。孝之さんは、私のお父さんの二つ年下で、白髪交じりの頭はまだフサフサとしているけれど、私に責められると困った笑顔で逃げようとする姿は、私のお父さんとそっくりだった。
「なんで、あんなのが良いんだろう」
作品名:死刑囚の視点(③江藤麗) 作家名:moshiro