審問官第一章「喫茶店迄」
ストークスの定理はベクトルが定義されている空間内での線積分を面積分に変換する公式。考え方はガウスの定理に似ているが、ストークスの定理は次のやうな式として表される。
この中に出てくる という部分はベクトル量である。よつて次のやうな 、 、 の 三 成分で表現しなければならない。
Figure 1
これはベクトルの回転を表す量なので「rotation」を略して と書く。教科書によつては と表記しているものもある。
――つまり、キルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さつき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買つたから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。
――有難う。でも、借りるだけね、うふつ。
――つまり、君は、つまり、知つてゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、正確無比に記述、つまり、出来ない事を?
――えつ! 知らないわ。さうなの……。
雪は終始愉快さうであつた。即ち、それは私が愉快であつたといふ事である。ねえ、君、他者は自己の鏡だらう? 雪が愉快だといふ事は、取りも直さず私が愉快だつた事が雪に映つてゐただけの事に違ひないのさ……。
――つまり、渦の紋様が、つまり、古の昔から《存在》してゐて、つまり、しかもそれが、つまり、人類共通の、つまり、紋様だつた事は、つまり、知つてゐるね。
――ええ。アイヌの人々の衣装を見ただけでも自明の事よ。日本は勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ正確には数式で記述できないつて事が不思議でならないわ。
――つまり、其処なんだ、つまり、問題は。つまり、僕の、つまり、直感だけれども、つまり、渦を、つまり、数式とかで記述するには、つまり、∞の次元が、つまり、自在に、数式で、つまり、操れないと、つまり、記述できないと、つまり、思へて仕方がない……。
――∞の次元? ねえ、それは何の事?
――つまり、此の世は、つまり、アインシユタインの一般相対性理論のやうに、つまり、四次元多様体であるといふのが、つまり、一般的だが、つまり、其処で君は、つまり、特異点を知つてゐるね。つまり、人類が、つまり、未だ渦を、つまり、物理数学的な数式で、つまり、正確には記述できない事が、つまり、この世界を、つまり、量子論と相対論とを、つまり、統一出来ない、つまり、その根本原因だと、つまり、その歪(ひずみ)が、つまり、特異点として、つまり、現れて、つまり、人類は特異点の問題を、つまり、姑息な手段で、つまり、なるべく触れずに、つまり、取り繕つて、つまり、何事か、つまり、世界が物理数学で、つまり、記述出来ると、つまり、錯覚してゐたい、つまり、穴凹だらけの地面を見て、つまり、「この土地はまつ平らな土地だねえ」と、つまり、夢幻(むげん)空(くう)花(げ)な《もの》として錯覚してゐる事を重重承知してゐるのに、つまり、それを敢へて錯覚して見せてゐるに、つまり、違ひないのさ。
――えつ? もつと解りやすくお願ひ。
――つまり、僕の直感だけれども、つまり、渦は、つまり、四次元以上、つまり、∞次元を四次元多様体に射影しただけの、つまり、∞次元多様体を四次元で表しただけの、つまり、仮の姿に、つまり、過ぎない。そして、つまり、渦は、つまり、此の世の結び目、つまり、四次元時空間を、つまり、宇宙として繫げてゐる、つまり、結節に違ひないのだ。
――つまり、銀河の事ね。パスカルぢやないけれど、二つの無限の中間点が……渦といふ事ね。そして、人間もまた……渦といふ事ね。
――さう。
――うふ。
――つまり、渦が、つまり、物理数学的に正確無比に一度(ひとたび)記述出来るといふ事は、つまり、《無限》の仮面が、つまり、剥がれる、つまり、時さ。そして、つまり、人類は、つまり、此処に至つて漸く本当の《無限》に、つまり、出遭ふのさ……
――本当の《無限》?
――つまり、人類が、つまり、無限大を、つまり、∞といふ《象徴》で、つまり、封印した事が、つまり、間違ひの元凶だつたのさ。しかし、∞といふ、つまり、象徴記号が、つまり、なかつたならば、つまり、科学の発展は、つまり、もつともつとゆつくり進んだに違ひない……つまり、ねえ、君、人類は、つまり、得体の知れぬものに、つまり、《仮面》なり、《象徴記号》なり、《名前》なりを、つまり、付けられずに、つまり、堪へられる、つまり、生き物だらうか?
――さうね……《心》がその典型ね。きつと無理ね。
――……。
――ねえ、うふ、《得体の知れぬ》あなたは、形而上で呼吸をしてゐる《不思議》な生き《もの》ね……。ドストエフスキイ曰く、あなたは《紙で出来た人間》の眷属なの? えへ。
――さうかもね、へつへ。つまり、《魂の渇望型》の、つまり、生き《もの》さ。さて、……その、つまり、陰陽魚太極図だけれども、つまり、僕の勝手な、つまり、解釈だけれども、つまり、東洋、つまり、特に日本は、つまり、陰陽===>太極で論証する、つまり、弁証法の正反===>合に比べたら、つまり、曖昧模糊とした論証だけれども、つまり、しかし、陰陽===>太極で思考する方が、つまり、深遠だと思ふ。
――さうね。さうかもしれないわ。
――君は、つまり、今、つまり、道元と親鸞に、つまり、心酔してゐるね?
――さう……。あなたは何でもお見通しね、うふ。キルケゴールの『おそれとおののき』だつたかしら、アブラハムとその子イサクについての基督者の姿勢が書かれてゐた筈だけれども……私……《論理》を超えた《言葉》を……今……渇望してゐるの。それが道元と親鸞にはあるやうな気がするのよ。《神》無き仏教に惹かれるの。それに、私、神が傍若無人を人間に働く『ヨブ記』が大嫌い!
――でも、つまり、ブレイクもキルケゴールも、つまり、『ヨブ記』に耽溺してゐた筈だがね……。
――さうね、基督者にとつては『ヨブ記』はある意味、信仰の《踏み絵》ね。確か、ドストエフスキイもさうだつた筈だわ。
――つまり、砂漠の地で生まれた、つまり、ユダヤ教、基督教、そして回教、いづれも、つまり、《自然》といふ名の《神》は、つまり、皆、つまり、悪意に満ちてゐなければならなかつたのさ。つまり、彼らは、つまり、それ程過酷な自然環境の地で生きなければならなかつたのさ。
――うふ。それで世界は厳格なる縦関係で《秩序立つて》ゐたのね。だから、私には虚しいだけの《論理》と《科学》が発展したのね。
――さう、つまり、《理不尽》にね……。
――さうなの、西洋の《論理》は《理不尽》なのよ。
――Credo,quia absurdum、つまり、君は、つまり、《不合理故に吾信ず》といふ、つまり、箴言を知つてゐるね。つまり、確か、テルトウリアヌスの言葉だつたと思ふが、否、つまり、その前に、つまり、君は、つまり、此の世に《秩序》があると思ふかい?
――ええ、勿論あるわ。
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪