万華鏡の夜に死す
都心近郊の国家公務員住宅の駐車場で、あの世へと命を引き渡して間もない新鮮な死体が冷たい雨粒を無抵抗に引き受けていた。
苦悶の表情に口元は歪み、うすく開いた腫れぼったい目をしていた。
その若者は仰向けになり両膝を直角に曲げて足底を地面につけて息絶えている。一見するとまるで四の字固めをかけられるのを待つ間抜けなプロレスラーのようだ。
しかし、耳穴からはどす黒い血液が流れだしており、周りの水たまりを黒く染めていて、紺色の背広が水たまりの中で死んだ蛾の羽根のように広がっていた。
恨みがましいその眼差しが現世に対して謎を投げかけている。
私はその晩、国家予算案の作成で終電に間に合わなくなり、帰宅のためのタクシー券をもらって上司と霞が関の官庁を出た。くどくどと愚痴をこぼして説教を続ける上司を世田谷区で降ろした後、タクシーは川崎市にある自分の公務員住宅に向かい、着いたのは夜中の夜三時である。そして自宅のドアの近くにこの死体を発見してしまったのである。
フル回転させた頭脳を休ませるため一分でも長く睡眠時間を取りたかったのに、どうやら朝まで眠れそうにない。倒れている人物はすでに死んでいると判断した私は警察に電話した。どうせ死んでるんだからと救急車は呼ばなかった。現場を保存するために死体に触らないという点には注意した。
しばらくして警官がパトカーを運転して現れた。夜明け前なのに情け容赦なく公務員住宅のドアを叩いて住民を叩き起こし、聞き取り調査を実施した。その結果を踏まえて、満面の笑みを浮かべながら大きな声で私に言った。
「頭を鈍器で殴られたら暴れて周りに人に声を聴かれている。だれも声を聴いていないから殺人じゃない。これは飛び降り自殺だな」
死体の奇妙な姿勢の理由については、着地の衝撃で死にきれず、ショック症状による血圧低下と骨折の激痛に耐えかねて自家用車で病院に行こうとして力尽きたのだろうという考察を披露した。確かに公務員住宅の五階からでは低すぎて死ねないように思えた。
死ぬためではなく苦しむために飛び降りたのかもしれない。
私は早く寝たいという強い生理的な欲求とは別にその死体を見つめることで異様な慰安を感じていた。
その男は精神を病んできたかもしれないし、収賄事件を起こしてしまって、それを苦にしたのかもしれない。あるいは成果を上げられないことを責められたのかもしれない。その男とは面識はないが、頭に浮かんだ想像と自分の経験とを比べ始めた。
私は国というものを造る使命感をもって仕事をしたいと国家公務員になった。歴史に名が残るような偉業とは言わないまでもわずかでも爪痕が残るような何かを残せるかもしれないという淡いロマンを感じていた。その世界は深夜零時を過ぎるまで働くのが当たり前だった。中国政府からの公式文書には和文が添えられていて「我が国は深い喜びをもって貴国に伝達する」と始まっていた。中国の官僚も自分と同じ理想を持って長時間働いている同志なんだな、となんとなく思った。
新事業のアイデアを出せと上司に言われて、急にそんなこと言われても、と口ごもると、例えば静岡県のS主任に電話するというのはどうだ。アイデアは盗むものだと言われた。電話をかけると現場はこんなことで困っています、と言ってS主任は様々なアイデアを懇切丁寧に教えてくれた。都道府県のベテランの役人には現場を知り尽くしていても予算が無くて自分の考えた事業が実現できずに不満を募らせている人がいる。必死にメモを取った。
国家公務員の係長として迎えた初めての十二月二五日は政府予算案の確定日。二十日に提出した予算原案について政府内の調整が始まり、復活折衝を踏まえて二五日は夜遅くまで上から自分の担当事業まで微調整が下りてくるのを待つのである。
総括課長補佐が、お前はここを○○万円削れ、増やせと次々に課員に声をかける。帰っていいぞ、と声をかけられた人はタクシーを待ちながら執務室の片隅に集まってビールを飲み始める。お役御免となった私もビールを飲んだ。人生でこれほど旨いビールを飲んだことは無かった。
しかし与党政治家に呼び出されて説明を求められる下僕的な対応に辟易し、課長の都合で突然始まる長時間の会議、そしてマイナスシーリングという民間では考えられない制度への対応などで疲労感が溜まっていった。マイナスシーリングとは予算の概算要求などにあたって、前年度より一定率を減じたものを要求限度とすることを義務とすることである。事業の継続のためには現実を無視して予算を調整するのである。これを逃れるために「緊急対策事業」と銘打って今までの事業を新たな事業としてでっちあげるのも仕事だった。数年後には「国を作る」という高揚感は過ぎ去り、ストレスが鉛のように骨身に沈殿していた。
新年度になって仕えることになった課長補佐は死神のようなものだった。人間の能力は無限であり部下のそれを叱責によって引き出すのが自分の職務と心得ていた。ひた走りに走って逃げ道を絶ち、部下を追い詰める。部下を退職や入院に追い込むくらいなら処罰を受けることは無かった。その省庁には部下を三人殺さないと局長に成れないと吹聴する者すらいた。
今、私の目の前にある死体は私と同年代に見えた。その死に様が私の体内に入り込み、黒いヘビが脳髄にとぐろを巻くかの如くゆっくりと動き始めた。
なるべく早く立ち去らなくてはならないと思ったのに私はいつまでも死体を見つめていた。死後硬直の始まった肉体が左右非対称に不自然に曲がり始めて、聖なる光を放ち始める。それは魂をバターのように溶かしてしまう圧倒的な熱量を持っていた。
死体は雄弁に語っていた。お前もこっちに来い。早く来いと。
パトカーの回転灯が万華鏡のように辺りの植栽や宿舎の壁を赤く照らしていた。
私はガムテープのように体中に貼り付いた想念を引きちぎって、踵を返し、自宅に駆け込み、ドアにカギをかけた。
夢遊病者のようにテレビのコードを引き抜き、それで輪を作りながらつぶやいた。
「師よ、しばしお待ちください」