ボクとキミのものがたり
【ハンドクリーム】
陽射しがカーテンを明るく照らす。このまま春になってしまいそうな穏やかな日。
先日までの慌ただしさを忘れ、原稿に向うボクが居る。
暖かな陽射しが差し込み、羽織っていた褞袍(どてら)を脱いだ。
だが、ペンを持つ手先は冷たく、時々使い捨てカイロで手を温める。
ボクの背中の後ろに居るキミが静かだ。案が纏まらないボクは、振り返りキミ見る。
何かしらの糸口になるかもしれないという気持ちだった。
だが、キミは、借りてきた猫というよりも床の間に飾られた鏡餅のようにクッションの上に鎮座してボクの背中を眺めていたようだ。
「どうしたの?退屈?」
「ううん。気にしないで、楽しいから……」
「何も食べないの?蜜柑は?それとも何か残っていなかったけ」
「そんなにいつも食べてばかりじゃないよ。あ、さっきお煎餅食べたから大丈夫」
「そっ」
ボクは、再び原稿に向う。
カサカサッ…
原稿用紙に触れる所為か、空気の乾燥の所為もあるだろう、指先の脂が取られているようだ。
つい、力を入れてペンを持つからだろう、できたペンだこの横がささくれている。
あまり付けたくないが、薬局で貰った試供品のハンドクリームをつけてみることにした。
「あ、キミも付ける?これってどれくらい付けるものなの?」
んーと小首を傾げながら、キミが傍に来た。
「指先にペちょっと取ったくらいでいいと思うけど」
「べたべたしないかな……」
「最近のは、『べたつかないですよー』って改良されてるみたい。塗ってみたら?」
「あれ?塗ってくれないの?誰も見てないからさ。はい」
いつもキミが食べさせてくれることが、誰かが見ていようと見ていなくても恥ずかしいけれど、ボクは、手を差し出した。
微笑みながらも首を横に振るキミを諦め、塗ってみた。
今まで、何を拘って使用しなかったのかと思うほど、ぺっちょりした感触がすぅーと砂漠のようなボクの皮膚に浸透し、絹の表面を撫でたようにさらりと変わった。
その上、潤っているではないか。
ちょっとした感動……。
「おおー。(凄いぞ…)。ねえ、塗ってあげる」
ボクは、掌を握りしめ隠すキミを腿の上に座らせ、拳の甲にクリームを付けた。
キミの背中の温もりがボクの胸元に伝わる。シャンプーいやコンディショナーの微かな香りが、鼻先をかすめる。
「いいよ。恥ずかしいよ。じゃあ自分で塗るから……ね?」
「駄ぁ目。初仕事!っていうのも可笑しいか。まあいいじゃないの」
ボクの手が、柔らかなクリームで包むようにキミの小さな手にそっていく。
掌同士を合わせてもキミの掌はボクの領域を超えない。
「あーあ、結構カサカサじゃない。ちゃんとケアしないと……」
照れくさそうに下を向くキミの横顔に 戸惑った表情を感じた。
ボクは、その手にハンドクリームを塗りこみながら回想する。
――キミが、蜜柑を剥いてくれたとき。
――キミが、林檎を切っていて手を怪我したとき。
――キミが、焼き芋をほおばっていたとき。
――キミが、ケーキを口に運んでくれたとき。
みんなこの手でしてくれたんだね。
芳香剤など、好まないボクの為に……。
まして口に食べ物を入れるときに香料の匂いがしないようにと気遣ってくれていたんだね。
そんな手を 今日はゆっくり休めてあげられた気がした。
「ほら、猫の肉球のようにほにゃほにゃになったよ」
「にゃお。じゃあ爪を研ごうかな。……ありがとう。気持ち良い?」
そういって、キミは、こちらを向くと両手でボクの頬を挟んだ。
「うん。柔らかで気持ちいいよ」
「ねえ猫って」
「駄目だよ、猫に塗っちゃあ」
「あ、先に言われちゃった。しないよ。だってもうほにゃほにゃだもん」
ボクの頬に、爪が当たったのは……気のせいかな……。
さっきまでひんやりしていたキミの手が、ほんのり温かく感じる。
ボクの体温を分けてあげられたのかな。
微笑むキミをずっと見つめていられるといいな……
今、ボクは、キミの手からペンに持ち替えるのに躊躇している。
なんてことを思い浮かべながら、原稿に書き止めるボクが居る。
滑らかなクリーム状のハンドクリーム。
ただそれだけなのに……。
― Ω ―
作品名:ボクとキミのものがたり 作家名:甜茶