娘と蝶の都市伝説7
170キロを出そうと思い、力みすぎたのだ。
しかし、バッターはそのボールを大きく空振りした。
なんでもいいから打つと決めていたのだ。
バックネットのスクリーンに、169キロという表示がでる。
スタジアムが、おおっとどよめく。
パーフェクトゲームの試合が見られそうだし、169キロのストレートも目撃できたのだ。
観客たちは、もう、わあわあ騒いでいる場合ではなかった。
マウンドのユキがふりかぶり、二球めが放たれた。
バッターはただそこに立っていた。
初めて体験する170キロのボールが、目の前を通過した。
ど真ん中のストライク。
「おおおー」
観客全員が息をとめ、固まった。
ユキがキャッチャーからボールを受ける。
すばやく次の投球のかまえに入る。
キャッチャーを目がけ、白い稲妻が奔る。ストライク。
『171キロ』
アンパイアが体操選手のジャンプのごとく跳びあがった。
バッターアウト。世界記録だ。
わああっと大歓声。
掲示板の『171キロ』がぴかぴか光った。
「ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、ヤンキース、ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、ヤンキース」
その応援に合わせるかのようにユキ自身が〖ニューヨーク、ニューヨーク〗という言葉を発しているようにも思えた。
からだがぽっぽっと熱くなる。
ユキのからだの中に住む膨大な数の微生物たちが活発に動きだし、応援を開始したかのようだった。
そんな現象がさっきから起こっていたような気がした。
「あと一人だあー」
「世界記録だあー」
だれかが大声で声援を送る。
どどどっと拍手。
その拍手がすっと消えた。
観客の咳がすぐ近くに聞こえた。
ユキが投球モーションに入った。
最後のバッターが複雑な面持ちで立っていた。
スコアは三対〇である。ユキの投球から考え、もう逆転はない。
ユキのボールが、目にも止まらぬ速さで通過した。
アンパイアが全身をわななかせ、片腕を突き上げた。
「スト、ライーク」
キャッチャーがボールに力をこめ、返球してくる。
返ったボールをグラブで受け、ユキはベルトの位置でセットする。
さあ次を、とキャッチャーが腰を引き、ミットを差しだす。
マスクの内側の二つの目が興奮し、ぴかぴか光る。
ユキは左足をあげ、モーションを起こした。
ミットを目掛け、ボールを放り込む。
スタジアムの全員が機械仕掛けの人形のように、いっせいにバックスクリーンに顔を向ける。一七二キロ。
一瞬の間をおき、どどっとまた拍手。
が、すぐに消える。世界記録とパーフェクトゲームだ。
スタジアムは張りつめた緊張感に包まれた。
「あと一球だあ」
たまらなくなったとばかりに、だれかが叫ぶ。
内野手も外野手も、定位置のポジションで身じろぎもしない。
満月の月の世界のように、球場は静寂に包まれた。