Deadwood
掴んだり捻ったりしても、びくともしない鎧のような顔。負けるのは決まって自分の手で、爪や指先が痛くなってくる。その頼りがいのある感触が好きで、昔から気がつくと触っていた。
『今日は、飲み会で遅くなる』
結婚から五年。正俊からのメールは少しずつ短くなり、いいように言えば研ぎ澄まされている。最初のころは誰と飲みに行くか書いてあったけど、当時からそんなことに興味はなかったから今の方が楽だ。お互い三十二歳で、仕事をきっかけに知り合った。私は営業で、夫は得意先の社員。私はいつの間にか自分を売り込んでいたらしく、とんとん拍子で交際が始まった。営業スマイル以外で滅多に表情を変えない私に、正俊の会社は色んなあだ名をつけた。仮面女とか、ポーカー姉ちゃんとか。しかし、揺るがない表情は私の誇りだ。一朝一夕に作られるものではない。
『病院はどうだった?』
返事を打つよりも前に、メッセージがロック画面に追加された。今は手を離したくないのだけれど。私は渋々ロック画面を解除して、返信を打った。
『なんでもないって、塗り薬だけくれた。飲み会楽しんでね』
『なんでも任せきりでごめん』
言わなくても大丈夫だ。正俊は今、出世の分かれ道にいる。営業という立場で上司に会ったこともあるし、何年かブランクがあるとはいえ、正俊が勤める会社の空気は『よそ者』として良く知っているつもりだ。だから、大変だということは最初から理解している。
そして、ある程度の歪みには目を瞑らないと、自分の親のようになるということも。
鎧の顔、金属製のお面。それを初めて見たのは、祖父が切り盛りしていた工房のような場所だった。私は九歳か十歳で、後先を考えない上にとにかく感情表現が激しい子供だったらしい。工作台の傍らに、金属の地肌がきらきら光る鬼のお面が置かれていて、怖い物見たさで手に取ってしまった。当然手の油がついて、そのお面は売り物から外れることになった。特に怒られることはなかった。
そのお面は、私の手が届かない部屋の高い場所に吊るされ、二十四時間、自分を見下ろすようになった。誰も怒らないし、小言も言わない。ただ、結果と向き合う。それだけだ。最初の一週間は、暗闇に浮かぶ鬼の顔が怖くて眠れなかった。次の一週間は、取ろうとして飛び上がったり台に乗ったりしている内にバランスを崩して転倒し、右の手首と肘の骨を折った。ギプスが取れた日にそれを思い切り投げつけると、お面はついに台から外れて目の前に落ちてきた。怖くなくなるのと同時に、びくともしないその姿に憧れのような気持ちを持ったのは、そのときだ。ギプスがぶつかった跡ですら、ウェットティッシュで拭いたら綺麗に取れた。親は、お面がなくなっていることにすぐ気づいたと思うけど、何も言わなかった。そうやって、金属の地肌がむき出しであちこちが茶色く錆びている鬼のお面は、正式に私の持ち物になった。
小学校を卒業して中学校に上がり、高校に入学してからもずっと、そのお面は私の部屋にあった。最初に使い道を知ったのは中学生のときで、二年生だったと思う。私の余計なひと言で仲良しグループにヒビが入ってしまった。自分で自分を痛めつけないと気が済まないけど、実際にやるのは怖い。だから鬼のお面を被って、自分の顔を思い切り殴った。手がじんじんと痺れたけど、お面という鎧をまとった顔は、びくともしなかった。
嫌な目に遭ったときは、そのお面を被って鏡の前に立ち、小さな目出し穴からその姿を見つめて、鞄を自分の顔に思い切りぶつけた。凄い音が鳴るし体はよろけるけど、顔は無事。お面は相変わらず澄ました顔で、年が経つごとに少しずつ錆びてはいったけど、その揺るがない堅牢さは健在だった。
正俊と知り合ってからは、そんな鎧を自分で用意する必要がなくなった。なぜなら、お面の話をしたとき、正俊は『その鎧は夫の役目だ』と言ったから。ようやく私は、二十年近く手元に置いてきた鬼のお面を捨てた。
捨てたと思っていたのだけど。また正俊からメールが来ている。
『早織も、もうちょっと大きくなったら落ち着くよ』
早織は今年で二歳。正俊は、怪我が多いことを心配している。私の育児休暇が終わったらどうなるのかと思っているんだろう。さっきからずっと目が合っている早織に向かって、私は言った。
「邪魔するんじゃないよって話だよね」
最愛の娘に、二人で最強の鎧を着せると約束した。でもこれだけ怪我が多いと、最近は特に目が離せないで疲れ気味の私のことを、正俊は気にかけてくれている。それは、正直ありがたい。正俊は知らないだろうけど、私が早織にお裾分けしたのは、かつて私のものだった鎧だから。だから、そう簡単に壊れるはずはない。
でも、時折不安になる。なぜなら、早織の顔って触れば触るほど。
真っ赤になるし、ぐにゃぐにゃに歪むから。