熱戦
能信の監督が小宮君を代打に送ったのには、大きな理由があった。
小宮君の家は数カ月前から、お母さんが実家に帰っていた。理由はもちろん部外者にはわからないが、その話を能信の町内で知らぬ者はいなかった。だが、家族みんなで話し合って別居という答えを出し、子どもがその意向を理解したとしても、感情的に納得しているとは限らないものだ。小宮君は、やっぱりお母さんには家にいてほしかった。「ただいま」という言葉の後に、「おかえり」というお母さんの言葉が返ってくる、そんな家庭でありたかったのだ。
お父さんとの二人暮らしの中で、小宮君が熱心に練習に打ち込み始めたことを監督はよく知っていた。しかし、申し訳ないが、その実力は試合に出すレベルには至っていない。また、勝負の世界に私情を差し挟むことは禁物だ。それもよくわかっている。でも、小宮君のそのやる気とたゆまぬ努力を、監督としてではなく一人の人間として買いたかった。そして試合の日の今日、久しぶりに小宮君のお母さんが応援に見えていることに気がついた。お父さんも、仕事で遅れるが応援に駆けつけるという連絡をもらった。
さまざまな葛藤の中で、能信の監督は大きな決断を下す。勝負の世界よりも前に、私たち大人は人として、選手である少年少女たちに伝えなければならないことがあるはずだ、と。
かくして小宮君は、この試合を左右する重要な場面でバッターボックスに立つことになったのだ。
小宮君は信じていた。この試合で結果を出せればお母さんは帰ってくる、と。冷静に考えれば何の根拠もないのだが、小宮君は絶対に帰ってくると信じて疑わなかった。でも、結果を出そうにも試合に出られなければどうにもならない。諦めかけていたその時、コーチから代打の準備をしておけという指示があった。そして、本当に打つチャンスがやってきた。
これはもう、世界中が自分を味方している。何があっても打てるし、お母さんは絶対に帰ってくる。ピッチャーの投げる球を、自分が華麗に打ち返す瞬間が何度も脳裏によぎる。そんな万能感を抱え、小宮君は手汗でベトベトの両手でバットを固く握り、マウンド上の中本君、いや、その先の小宮家と自分の運命をにらみつけていた。
中本君は疲労の中で、1球目を投げる。それは山なりのスローボール。自分の疲労と、バッターの情報を探ろうという意図と、バッターがやけにこちらをにらんでいて、気持ちが逸っているだろうという3つの理由を考慮しての投球だった。ストライクが入ろうが入るまいがどうでもいい。凡打を打ってくれればラッキーだし、そうでなくとも打者の情報がわかる。そういう気持ちで、投げるというよりも置きにいくと言ったほうがふさわしい球だった。
しかし、この球を見た小宮君は逆上した。こっちはお母さんが帰ってくるかどうかの瀬戸際なんだ。そんな大切な打席に、こんなふざけた球を投げるなんて。許せない、何があってもこの球をヒットにしてあっと言わせてやる。バカにされているかのような投球にすっかり頭に血が上ってしまった小宮君は、そのスローボールに手を出したのである。
「ガキィィン!」
いびつな音を立ててバットに当たったボールは、ボテボテでセカンドに転がっていく。豊橋君は前進してゴロを捕球しセカンドに送る。ショートの佐藤(優)君がセカンドベースを踏みつつそのボールを取り、そしてダブルプレーを完成させるべくファーストに送球した。
バッターの小宮君は、1塁に懸命に走りながら後悔していた。
(なんで、なんでだよ。こんなはずじゃないのに……)
だが、それでも小宮君はあきらめていなかった。せめて自分だけは生きるべく走り続ける。だが、セカンドからこちらに向かって速い球が飛んでくる。
(絶対、僕がアウトになるわけはないんだ!)
1塁ベースに頭から飛び込んだ。
「アウト!」
一瞬の静寂の後、1塁塁審の大きな声が聞こえる。その無情な宣告を聞いた小宮君は、もう立ち上がる気力すらもわいてこなかった。
突っ伏したままでいると、相手の日我好の選手たちがぞくぞくとベンチへと戻っていく。それを見た途端、急に自分が無力で、なんの価値もないように思えてきた。
「う、ううぅ、うわぁぁぁぁ」
突如として涙があふれてきて、気づくと、小宮君は1塁ベースを枕に声を上げて泣き出していた。
ある程度の事情を知る能信のチームメイトはもちろん、何も知らない日我好の選手たちも、その姿には何かしら心を動かされるものがあった。恐らく「何か」を背負っていたのであろう相手選手のその姿を見て、投手として対戦した中本君は帽子を取って一礼してからベンチへと戻る。やがて、能信の監督が1塁に駆け寄り、小宮君を抱き起こした。
「よし、よし。偉いぞ。よく頑張った。よく頑張った、な」
小宮君を見つめていた女性は握っていたハンカチで、うるんだ眼を何度も何度も拭っていた。