熱戦
だが、そううまくは行かなかった。
能信ナイン、いや、今日の出場選手の中で唯一の女子、セカンドの畑中さんが、シフトの位置から懸命にボールに食らいついていったのだ。彼女はほぼライトの浅い位置にまで全速力で走り込み、ギリギリでボールをグラブに収め、崩れる体勢から必死に1塁へとボールを投げる。
送球はどうにか間に合いアウト。すかさず、1塁手の赤井君はホームへ矢のような送球。ホームを陥れようとしたランナー豊橋君だったが、そのあまりに鋭い送球に慌てて3塁に引き返した。
畑中さんはとても野球が好きな女子だ。野球への愛情でいったら、今日、出場している全選手の中でも、それこそ5指に入るかもしれないほどだ。しかし、そんな畑中さんにも大きな悩みがあった。自分はいつまで野球ができるだろうか。中学、高校、大学、社会人と年齢を重ねるにつれて、男子たちとの肉体的な差はどんどん開いていく。すでに今も、肩の強さや力の強さでは男子に引けを取っているのだ。それに、大人になるにつれ、女子野球の間口も狭くなっていくだろう。女子のプロ野球もあるようだが、なかなか現実は過酷だとも聞いている。野球を続けたい、もっと野球をやりたい。でも、いつまで続けられるかはわからないし、終わりは突然やって来るかもしれない。
悩み抜いた結果、彼女は考え方を変えることにした。いっそのこと、開き直ってしまおう。いつまで続けられるかわからないのなら、野球ができる今を全力で楽しめばいいじゃないか。それで、この先ずっと続けていければ、こんなに幸せなことはないし、辞めることになってもきっと悔いはないはずだ。
こうして重荷を下ろしたその日から、彼女の素晴らしい快進撃が始まった。今を、野球を、心の底から楽しみだした彼女は快打や好プレーを連発し、みるみるうちにセカンドのレギュラーをつかみ取った。一人だけ、異様にライバル視をしてくる本山君という困った人物もいるが、畑中さんにはもはやそんなことはどうでもよかった。今は大好きな野球に夢中だし、野球を楽しむのに精一杯だから。
そんな野球を心から愛している少女が魅せた、シフトの裏をかいた広尾君のさらに裏をかいた好プレーで、能信は大きなピンチを脱したのだった。
ツーアウト3塁となったところで5番、安打製造機の山田君が打席に立ったが、ここは上野君がピシャリと三振に討ち取った。
上野君は優秀で、その将来を期待されている投手だ。チームメイトの信頼も厚く、まさに能信のエースの名にふさわしい。だが、ちょっとだけ独特な癖がある。
苦悩癖、とでも言えばいいのだろうか。あまりにもいろいろなことに気を配り過ぎな上、そのいろいろなことを真剣に捉えて、深く考え込んでしまうのだ。
例えば、逆転のランナーを背負っているとする。このとき、全く危機感を抱かない投手は恐らくいないだろう。相手がどういう作戦で来るか、それに対してどんな対応をするか、それを守備陣にどう伝えるか……。いろいろなことを念頭に置いてできる限りの対応をする。それが野球というものだろう。だが、彼はどんな時でも、悩んで悩んで悩み抜いて対応を模索し続ける。大差だろうと、ランナーがいないときだろうと、別の投手が投げているときだろうと。こういう時、どんな事が起こる可能性があるか、それを未然に防ぐにはどうしたらいいか、上野君はその全ての可能性を脳内で挙げる努力をし、その全てに対応をしようと考える。そんな男なのだ。
監督やコーチ、チームメイトはもう少し気楽にやるべきだ、あまりに深く考え過ぎるのも禁物だと言う。だが、彼はその助言をかたくなに拒否してここまでやってきた。考えるのを止めるということ、それは成長を止めることにほかならない。どんな場合でも、どんな小さな可能性にも気を配る。その想像力が自分の成長につながっていくはずだし、それができるということがほかならぬ自分の最大の長所なんだ。そういう持論、というよりもはや信念に近いものが彼の中にはあるようだ。
この風変わりな癖が、上野君の長所なのか短所なのか、それはよくわからない。というより、さまざまな人間が持ち合わせているさまざまな特性と同様に、長所でもあり短所でもあるのだろう。彼のこの癖によってチームが助けられた瞬間もあっただろうし、そうでないときもあったはず。そういった個人の癖やこだわりといったもの、それらが集合して相乗効果をなし、チームや社会といった集団が作られていくのだ。
しかしどうあれ、これからも上野君はグラウンドで苦悩をし続けながら、野球をしていくことだけは間違いないだろう。