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豊田佐吉になるという誓い

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ぼくは五歳の誕生日に図鑑を買ってもらいワニに夢中になった。シカや人間を食べてしまう肉食性の爬虫類のあのワニである。何種類かのワニの種名を覚えてアリゲーターとクロコダイルの違いを多くの人に説明して回った。大人たちは困惑して、「まあけいすけちゃんってお利口さんなのね!」とほめてくれた。もちろんお世辞であるが、「けいすけちゃんはお利口さん」というのはぼくの崇高な信念になった。
 ちなみに大作家ディケンズも幼少時にワニの系統分類に魅了されて知ったかぶりを披露して大人たちを困惑させていたらしい。
 幼稚園に入ってもお利口さんという自惚れは変わらなかった。蟻の巣をいじくり回すのが好きな内向的な子供だった。近所のおじさんが毎朝子供たちを集めて車で幼稚園に連れて行ってくれた。このころ唯一不愉快だったのは、「けいすけのけは家来のけ」と言ってぼくをからかったやつがいたことだが、ぼくはそいつが早く死ぬように毎日祈ったところ、そいつはその後、大学入学後、東京のお茶の水橋から落ちて死んでしまったらしい。
 希望に満ち溢れて小学校に入った。遠くの工場から黒い煙や白い煙がもくもくと立ち上り、川は捺染工場が垂れ流す染料で赤や緑に染まっていた。ぼくは小学校前に平仮名が全部読めるようになった「お利口さん」だった。木造の校舎はワックスの独特の匂いに満ちていた。教室の本棚には偉人たちの伝記本が並んでいた。ぼくはなにしろ「お利口さん」なのであるから偉人になるのは当然だと思っていた。さてどの偉人になろうかな?
 武田信玄とか上杉謙信は戦争ばかりやっているからちっとも偉くない。野口英世は苦労しているからかっこ悪い。そして発明家って頭が良さそうでいいなと思った。
 エジソンはかなりの変人だったのに偉くなったのは全くの意味不明であったが、トヨタ自動車の創設者、豊田佐吉は変人ではない。しかもどうやって偉くなったのかがちゃんと書かれていた。これだ!
 困っている人がいたから助ける。ライバルが現れたからがんばって勝つ。単純な動機、努力、そしてまるで予定調和のように必ず勝利する。こうすれば成功するというのが子供心にわかりやすく達成感に満ち溢れていて、これなら簡単に自分も成れると思ったのである。エジソンに成れなくても最低でも豊田佐吉には成れるというというのはぼくにとっては確信に近かった。
 小学生の最初の夏休み、朝ご飯をしっかり食べてからぼくは重い自転車にまたがり出発した。急な坂を下って左に曲がり、しばらく行くと大きな川に橋が架かっていた。名古屋ってそういうところである。千五百メートルもの長い橋を一人で渡るのは別の世界に行って帰って来れないような気がして怖かった。
 がんばるぞお!と大声を出しながら橋を渡り切った。迷子になって帰れなくなるのではないか。子供にとっては大冒険である。しかし、なにしろぼくは豊田佐吉であり、豊田佐吉はぼくであるから大丈夫。名古屋の自宅から豊田市までは結構な距離がある。目的地はトヨタ自動車株式会社の本社である。
 しかし二時間後にはあっさりカタカナで書かれたトヨタのマークを見ることができた。トヨタ自動車株式会社のマークに誓いを立てた。
「ぼくは豊田佐吉になります!!」
 興奮して名古屋市天白区の自宅にもどった。名古屋の暑さを忘れる快哉だった。真っ白い入道雲が青空に広がっていた。
 初めての夏休みに野外で普通の遊びをしてしっかりと日焼けした健康的な同級生たちは結束力が強まった。そして多数決の民主主義によっていじめの対象が決まり、集団での「楽しい楽しい狩り」が始まった。一人で本ばかり読んでいるぼくは集団でいじめられたのである。恐怖を覚えたのでナイフで切りつけた。顔を切られた奴は正義の味方のように言い放った。
 なんてひどいことをするんだ。みんなの楽しい気分が台無しじゃないか!
 ぼくはひどく叱られ、空想の世界に閉じこもるようになった。こうして現実を顧みない現実逃避の人生が始まった。ぼくが偉人なるのにふさわしい環境が与えられていないのは周りがいけないからだという発想は自分の人格をさらに内向的にした。現実よりも妄想を信じる人生が深化した。
 野口英世の不屈、豊田佐吉の執念についてぼくは全く学んでいなかった。こうして秋が過ぎ、小学校生活で最初の冬が訪れた。校舎の外では木枯らしが吹き、教室のストーブの石炭が真っ赤に燃えていた。