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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花 六、 自同律の不快の妙

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――自同律の不快の妙。埴谷雄高は、自同律を自同律の中に閉ぢ込めて合理的な考察に終始することなく、不快としたところにこの埴谷雄高の論法の妙が存分に現れてゐる。人間の起動力の一つに快不快があるが、それを自同律に持ってきた埴谷雄高の手捌きは優れてゐるといってよい。例へば『私は私である』で論理は一旦一区切りして、其処で思考は終はりを迎へるのが極普通のことであるが、埴谷雄高はぢっと思索に耽り、『私は私である』を蛸を噛むやうに何度も噛んでゐる中で、自同律から自然と湧き起こる『不快』といふ感情は如何ともし難いものとして自同律の不快といふ人類の思索史に残る箴言を残した。これは、しかし、誰もが抱く感情で、埴谷雄高以前に言葉として表したものは数知れずゐるが、それを端的に『自同律の不快』と名指せた炯眼に平伏す。しかし、事はそれでは済まず、自同律の不快のその先には必ず自己抹殺があり、つまり、『自同律の不快』は自己抹殺の狼煙であり、一度は必ず私は私によって抹殺される業を背負ってゐるのだ。それ故、『自同律の不快』は『自同律の不快故の自滅』が正確な言明であり、自身を自身の手で抹殺しなければならぬのが存在の存在たる所以である、といふのが存在の進むべき道である。

 雨降る真夜中、雨音だけが響く中で独り思索に耽ってゐると、不意に闇尾超が現れてぼそりと呟くのを聞くやうな気がしたのである。
――私といった以上、私は私自身の手で私を抹殺しなければ、満足せぬ。
 それが闇尾超の本望なのであらうか。結局の所、闇尾超は底無しの循環論法に陥ってしまひ、自縄自縛の中、どうにも身動きがとれずに、自棄(やけ)のやんぱちでこれ見よがしに自同律の不快を振り翳してブスリブスリとその切れ味鋭い刃で己を切り刻んでゐたのであらう。闇尾超にとっては自同律は不快ではなく苦痛であったのだ。痛みを忘れるために闇尾超は精神的自刃を毎日行ってゐたことは簡単に想像はつくが、それでは更に酷い痛みに襲はれるだけで、何にも解決しなかったに違ひない。それでも闇尾超は一時でも闇尾超であることに我慢がならず、倦むことを知らずに己の手で、己の精神をぼろぼろになるまで、日日、切り刻んで、それを少しの慰みにしてゐた。しかし、だからそれがどうしたといふのだ。闇尾超よ、自同律の苦痛なんて何も珍しいことではなく、極普通のことだぜ。それを何か特別な何かと勘違ひし、それは闇尾超独特の皮肉を込めたわざとの勘違ひをして、それを口実に己を自傷するのは現実逃避の一行動に過ぎぬ。
 例へば時空間すらも己の存在に恥じてゐて、恥じ入るばかり故に時空間は絶えず変容し、時間のみを敢へて取り出せば、己に我慢がならずに憤怒に燃えてゐるから時間は流れるとしたならば、その先には時間が目指す”理想”といふのも烏滸がましいのであるが、それでも時間にしてみれば、存在の思ひもよらぬ帰結を目指して紆余曲折を経ながら”流れる”のであらうか。さうして存在は、森羅万象は、時間に翻弄され、時空間に弄ばれながら、存在もまた、そんな不合理で残酷極まりない時空間に順応するやうにと、尻を叩かれかちかち山の狸ではないが、兎に背負ってゐた柴に火をつけられ背に大火傷を負ひ、仕舞ひには惨殺される狸よろしく、此の世の森羅万象は世界に翻弄され、その挙げ句に憤死するのをぢっと待つのみの、世界にしたならばこれほど御しやすい存在もないのかもしれぬ。さうならば、存在はどうあっても世界に対して反乱の狼煙を上げるのが道理である。自同律の不快に端を発する憤怒は年を経る毎にその炎は燃え盛り、火炎の権化と化した存在は逆巻く炎に身を焦がしつつ、世界を焼き払はふとする筈である。仮にさうならないのであれば、それは存在としての怠慢であり、闇尾超も私も許し難い存在として唾棄するに違ひない。
 森羅万象の憤懣は、然し乍ら、世界に対しては無力で、やはり世界に翻弄され続けながら、生き延びるのがやっとなのであるが、心の奥底で熾火の如くに燃え続けてゐる世界、または時空間に対する憤怒の火は、何時炎になってもおかしくないその時をぢっと待ってゐるのだ。それは星が大爆発してその一生を終えるやうに存在が滅亡する時、存在が絶えず抱へ込む憤怒の火はぼわっと一気に火勢を強め、大規模な手のつけられぬ山火事の如くに燃え盛る炎となって大爆発し、それは死の爆風として一瞬に全宇宙に燃え広がる爆風は尚も生き残る存在に対して少なからぬ影響を及ぼしては憤怒のRelayを行ふに違ひない。
 自同律の不快は埴谷雄高の言であるが、闇尾超は思ふに自同律の不快ならぬ自同律の憤怒へと辿り着いた最初の人なのかもしれぬ。それはいひ過ぎかも知れぬが、しかし、闇尾超にとって自同律は快不快では最早済まぬのっひきならぬもので、己が此の世に存在してゐること自体激怒の因にしかならず、それは生きてゐることが憤怒でしかないといふ誠に誠に生き辛い、成程、闇尾超が己を絶えず弾劾してゐたのも解らなくもないのである。尤も、闇尾超にとって理想の自分といふものがあったかといふと、それはなかったやうに思ふ。唯、闇尾超は世界に翻弄される己が許せなかったのだ。そんな我が儘はこの不合理な世界では全く通用しないが、それではその憤怒の淵源は何に由来するのかと闇尾超は絶えず己に問ふてゐたに違ひない。それは元を辿れば闇尾超といふ存在に深く根ざしたもので、それは例へば闇尾超が幼少期に負った心的外傷なのかもしれず、それが時空間恐怖症の類ひであったならば目も当てられず、闇尾超の存在は絶えず恐怖で戦いてゐた筈である。もし時空間が恐怖の対象でしかなかったならば、それは発狂する以外どうしたらいいのだらうか。然し乍ら、闇尾超は確かに時空間恐怖症だったと思へる。それは闇尾超のあらゆる仕草から誰の目にも明らかだったのである。闇尾超が何気なく発した言葉に、皆驚いたものであった。例へば、
――何故ものは時空間を動けるのか?
などと、闇尾超は真顔でいふのであった。闇尾超にとってものが時空間を動けることが不思議でならなかったのだ。それも当然である。何せ闇尾超にとって時空間は恐怖の対象であり、その時空間をものが動けることは闇尾超にとっては謎でしかなく、どうしても腑に落ちぬ事象の一つなのであった。それ故に恐怖の対象に絶えず囲繞されてゐる存在のどうしやうもない居心地の悪さは、発狂せずば、憤怒にならざるを得ぬ。存在することが即ち憤怒でしかないのである。憤怒せずば、一時も時空間に対峙して世界に存在することは不可能に違ひないのである。時空間恐怖症といふ心的外傷を抱へてゐたであらう闇尾超は、絶えざる恐怖心から憤怒の人になってゐたのだ。どう足掻いても納得が行かぬことに対してそれには深く関はらぬといふ極普通の人たちに付和雷同することは己に対して不義を働くことであり、己の存在に対して正直だった闇尾超は、時空間恐怖症であることを隠さうとはしなかったのである。