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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花 一、 此の世界の中で

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 以上のことを踏まへて改めてこの碧い蒼穹の下の世界を眺めると、森羅万象は時間の結晶であり、世界を眺望するといふことは時空が開示されるといふことなのだ。否、ある意味、既に時空といふものからも自由な世界といふ現象が湧き立ったゐるだけなのかも知れぬ。この眺望こそ誤謬の仮象とのGap(ギャップ)を知らしめ、現実に対してのずれを認識する良い機会なのだ。現実は概して不合理で残酷である。それに対して誤謬の仮象が現実と違ふことを認識しないと、その存在は夢遊病者のやうな状態で何時まで経っても仮象から抜け出せないまま、即死の危険性が高まるばかりである。それは泥酔したものが道路に横たはって車に轢き殺されるやうな危険性なのである。いい気分で道路に横たはったはいいが、走りくる車に轢き殺される悲劇は、現実に起きてゐることであり、お笑ひ種で済まされぬが、道路に横たはるのは泥酔してほぼ夢の中にゐるに等しい状態で更に夢を追ふためにこそ道路に横たはるのであり、それが即死に繋がるのである。つまり、このやうに仮象に閉ぢ籠もり、現実といふものを認識しないと、仮象に埋もれて現実に圧殺されるのだ。多分、四六時中仮象とばかり向き合ってゐれば、その存在は精神錯乱し、憤死するのが落ちである。
 私は世界を眺めるのが好きである。しかし、これは矛盾を孕んでもゐる。この蒼穹下の世界のなんと美しいことか。世界は誤謬の仮象すら簡単に飛び越えて、私の想像すらできぬ予測不可能な変化を彼方此方で同時多発的に引き起こし、さうして千変万化するのだ。万物は流転する。しかし、それは至極当然のことで、高高ちっぽけな存在に過ぎぬ私のみの予想通りに世界が変化して行くのであれば、それは、他者にとっては途轍もなく窮屈な世界であり、迷惑千万なことこの上ないのである。それに、世界が私の予想通りに展開するのであれば、そんな世界はちっとも面白くなく、忽ちにして私は世界に飽きて仕舞ひ、それならば仮象と戯れてゐた方がどんなに有意義かと、世界に見向きもしないだらう。世界の魅力の一つは多様なものがごった煮の状態でありながら秩序を持って世界に呑み込まれてあっと驚く事象が起こるからである。世界は存在してゐるものに対しては何一つ見捨てはしない。どんなものでも世界に招き入れるのだ。とはいへ、世界はこれまで多くの死滅を見守ってきたのも事実だ。また、一方で、世界は密かに選別を行ってゐて、予め世界に存続できないものは世界から弾かれて世界はそれを拒絶してゐるのだらう。世界に関してはそのどれもが正しいが、しかし、事、生物に限れば、生存競争を勝ち残ったもの、適材適所で生き長らへてきたものしか、その存在を許さぬ。しかし、例えば突然変異などのやうにそのものの発生において異形であっても世界はその存在を許す。けれども、その異形のものが生き長らへるかどうか世界は厳然と選別を行ひ、それは冷徹極まりないのだ。
また、私の仮象が現実とまるで違ふことからも解る通り、仮に私の仮象と現実が寸分違はず一致するとしたならば、それは渾沌を極め、世界の道理が立たぬ。道理が立たぬ世界は既に世界の資格を失ってゐて、それが仮に存在するのであれば魑魅魍魎が跋扈する地獄絵図にも等しい”悪”ばかりが蔓延る絶望の世に違ひない。唯、そんな気がするだけのことだが、しかし、大概、直感といふものは本質を鷲摑みにし、正鵠を穿ってゐるものだ。とはいへ、世界に秩序が、道理が存在することは否定できぬ。秩序があるからこそ、私は此の世界の中で予測不可能なことが同時多発的に起きながらもそれぞれに対してかうなるだらうといふ予測を立てては予定調和の中に不安を最小限に抑へながら、日常といふものを生きてゐる。平穏な日常が成り立つことは僥倖で、それが世界の慈悲ならば、此の世界は慈悲深いといふこととになるが、世界は時に牙を剝き残酷極まりないのも事実である。世界は不合理である。世界は節度あると看做すことは世界を買ひかぶってゐてそれは身を滅ぼす因になり得るのだ。
 だから、この美しい世界において、大人(たいじん)でない私は日常をそれが終始平穏無事であらうとも右往左往して過ごすことになる。此の世界が好きといひながら、私は結局の所、此の世界を心の底では信じてゐないのである。なんと矛盾してゐることか。しかし、存在はそもそも矛盾してゐるものである。矛盾してゐるからこそ、此の世界に存在を許されてゐるのだ。果たして矛盾してゐない存在は存在してゐるのだらうか。どんな存在もその内部では矛盾を抱えてゐてその矛盾を矛盾から解放しやうとして日常を生き、例えば、前日矛盾であったものが、新たな論理を見出した結果、矛盾でなくなる事象を何度見てきたことか。然し乍ら、私はまだ、他力本願の境地にはほど遠く、此の世界に全的に身を任せることに恐怖を感じてゐる。なるやうにしかならぬとはいへ、それを金科玉条の如くにする恐怖は、世界の残酷さを身をもって体験してしまったから、その残像が消えぬまま、私は平穏無事な日常をびくびくしながら過ごすのだ。世界はある日突然、牙を剝き、存在を襲撃し、死に飢えた死神のやうに死者を死屍累累と堆く積み上げる。その死んだものたちの、そして、生き残ったものたちの怨嗟が此の世に充溢してゐて、それは時間が長く長く流れることで最初の衝撃的な針が振り切れたやうな動揺と心の傷を癒やすのであらう。
また、この不合理で冷酷な世界は、例へば”特異点”といふ矛盾を抱え込んでゐる。これは此の宇宙の創成にも関わる大問題で、極限まで、存在するものを小さくして行き、超えてはいけない一線を飛び越えてその存在を無にしてしまった時、無限の扉が開いてしまふのか、それとも無が此の世界を鎮めるのか、いづれにしても何が起きるのか特異点では未だに不明なことである。それは無から有が生じるのかといふ此の宇宙創成時に関はる問題で、少なからずBlack holeの問題にも関係する。ここで、誤謬の仮象を用ゐれば、それは夢幻の世界である。つまり、特異点の問題が解決しない限り、世界は夢幻を孕む摩訶不思議な世界が成り立つのである。夢を見るのは特異点と深く結び付いてゐて、夢の世界での全肯定は或ひは特異点ではあらゆることが肯定されるそれこそ摩訶不思議な世界なのかもしれぬのである。だから、夢に啓示を覚えて夢を正夢として、また、物語の断片として後生大事に扱ふ人がそれこそ五万とゐるのである。それもこれも特異点に帰すのである。果たして闇尾超も特異点の問題に躓いたのだらうか。夢がこの宇宙をぎょっとさせ、宇宙を転覆させるその端緒になるとでも考へてゐたのであらうか。夢といふ世界の原理である全肯定のその世界は、夢幻の世界に留まらず、それは食み出してしまってこの現実世界に影響してゐると考へたのだらうか。そんなことを考へながら、蒼穹を気持ちよささうに流れる雲を私は今、見てゐる。上昇気流がある高さまで届いて雲を生じ始めてゐる。凪の時間は終はって風が上空に吹き始めたやうだ。この現実が秩序ある世界といふことは特異点からは遠くに存在し、全肯定の世界ではなく、冷酷無比な振る舞ひをするのかも知れぬ。