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亨利(ヘンリー)
亨利(ヘンリー)
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続・おしゃべりさんのひとり言/やっぱりひとり言が止めらない

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その103 アリとキリギリス



地に横たわるその体を、アリたちはするどい顎で、何躊躇なく細かく切り刻んで行った。
その獲物のまだわずかに動く足や触角は、生への執着や死への最後の抵抗というわけではない。
キリギリスは自分が暮らした草の上にある眩しい空を見上げながら、体中を這うアリたちに、自らの体をエサとして差し出すことに納得している。
なぜなら彼は生の目的を果たし、寿命を全うしたことに満足していたからだ。

僕は子供のころから、昆虫が大好きでした。
虫とか蟲というのじゃなくて、昆虫です。
昆虫とは基本的には、頭と胸と腹部に分かれて、羽は4枚、足が6本の外骨格性の生き物で、クモやダンゴムシは対象外。
なぜ昆虫に拘るかというと、父さんがよく昆虫採集に連れて行ってくれて、飼育ケースに集め出した時に、母さんが昆虫以外の虫を気持ち悪がってたからです。
僕は子供のころからとことんのめり込むタイプだったので、図鑑で調べ尽くして、更に深く知ろうとすると、範囲が広すぎると手が回らないから、蝶、バッタ、セミ、トンボ、甲虫類くらいがちょうどよかったのでしょう。
特に蝶類は、標本を作るのが難しくて、翅にキズのない個体を追いかけては、炎天下の野山を駆け巡っていました。
せっかく作った標本箱をうっかり床に落として、全壊なんてこともあって、手元に残してたやつも保管状態が悪くなって、全て廃棄してしまいました。

今でもきれいな昆虫を見ると、標本にしたくなる衝動に駆られ、実際のところやめられていません。
日本には、フンコロガシ(糞虫)の一種で“センチコガネ”という、体長2センチほどの甲虫がいるのですが、それはカラーバリエーションがものすごく豊富なんです。
単体でカラフルなタマムシやハンミョウより、僕はこっちの方が好きなくらいです。
通常鈍い光沢の並のセンチコガネの他に、オオセンチコガネは体の表面によりメタリックな艶があり、赤、青、紫、緑など、更にその中間色までも存在し、標本でそのグラデーションを楽しむのがマニアにはたまらないのですよ。
山林なら大抵はどこでも地面を這ってるのを見付けられますが、その周辺での色は一色に固定されています。
色味は生息している地方によって違い、日本中に様々な色の個体が分布しているので、採取には日本中を周らないといけないってわけです。
つまり僕は、各地に旅行したり仕事で訪問したついでに見付けては、大切に持ち帰るのを繰り返しているのです。
死骸を乾燥させ、アルコール消毒して、プラスチックの密閉容器に保管中ですが、いつになったら満足いく数になるのやら・・・。

昔はこんな昆虫少年や虫博士が、どこの小学校にも大勢いたと思いませんか?
最近はCGの昆虫で、虫の生態を語る子が多いですよね。時代だな。
でも僕も図鑑やなんかで語ってたので、媒体が変化しただけですね。
よく考えたら、小学校時代に『ファーブル昆虫記』でフンコロガシの生態を興味深く読んだんだけど、今思えばただの観察日記ではなかったでしょうか?
昆虫観察の第一人者ってだけで、ファーブルのことを昆虫学界の大御所みたいに捉えていましたけど、その程度の研究なら子供の頃の僕でもできそうです。
中学1年の自由研究では、蝶が花の蜜をどうやって見付けるのか不思議で、実験したことがありました。何かの本で読んだ内容を検証してみたくなったのです。
砂糖水を綿に染み込ませて待ってもアリしか来ない。
蜂蜜を混ぜても結果は変わらず。
花を置くと蝶が来るってことは当たり前だとして、
花びらだけでも集まって来る。
これは核心に近付いていると感じ、折り紙の花でも集まってくることを確認して、
「蝶は花を目で見て探してる」って結論を出したら、市の教育委員会の審査で賞を取りました。
でも最近の子供の自由研究が、テレビニュースなんかで紹介されているのを見ると、扱える道具や機器の進化で、外国の専門誌に論文が載るほどの研究をしてる子がいて、この時代の流れを羨ましく思います。
専門家の研究もインターネットを駆使して広範囲に調査して、細胞や遺伝子レベルであれこれできる時代。
ファーブルの観察くらいが、(子供向けにちょうどよかったんだ)って思いました。

そんなことを考えていると、『アリとキリギリス』という話を思い出しました。
イソップ寓話の有名作ですけど、これ実は、イソップのオリジナル創作ではないんですって。
元々は、『アリとセンチコガネ』というギリシャ語の寓話を流用して、もっと馴染みのあるバッタに置き換えたそうです。
それじゃ(盗作じゃん)って思うけど、僕はセンチコガネのままの方がよかったんだけどな。
イソップの原題『The Ants and the Grasshopper』のグラスホッパーはバッタのことで、キリギリスとは断定できない。キリギリスもバッタの一種だけど、Katydid(ケイティディッド)という単語の方がキリギリス。
なのに日本じゃこの物語の登場人物(虫)は、完全にキリギリスとして通ってるよね。
きっと歌を歌うって設定がポイントなんだろうな。
その後、日本国内でも、少しずつ話の内容は変化してきていますし、もうオリジナルはどうでもいいって感じか。

アリは暑い夏もせっせと働いて、冬越しの準備をしているけど、キリギリスは歌って遊んでばかり。アリの忠告を聞かないでいたら、やがて寒い季節が来てしまった。
僕が子供のころ読んだ話では、アリはキリギリスを見捨てて冬に保護してやらず、キリギリスは一人寂しく死んでしまうってものでした。
これで得られる教訓てのがあるんでしょうけど、心に引っかかるお話です。
最近では、アリがキリギリスを助けてやるって話にすり替えられてしまって、この教訓では、(人助けも大事ですよ)ってことなんでしょうが、(自分でしなくても人がやってくれる)ってふうにも受け取りかねない。
まぁ、どっちでもいいですが、僕が気になるのはむしろ、冬に死ぬキリギリスの何が悪いってことです。
では昆虫学的な見地から、冒頭のアリとキリギリスの物語の続きです。