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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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事件なんかいらない

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自分のような平凡な身の上には、事件なんぞ、そうそう起こるものではない。自分は活動的ではないし人付き合いもない。ひと月分の私生活のなりを、積み上げて上から透かして見ても、所見なしで済まされる。それこそが取り柄だと言われるのも、来ないかもしれない遠い先のことだろうし。
 いつものように妹とふたり、夜トコ(夜間のウォーキング)で狭い路地を歩いていると、前方に人の気配がある。街路の逆光を背に、立ち止まってこちらを見ているようだ。なおも進むと、ひとりの老婆であることがわかった。
 ──あんたらいま散歩? 悪いけどちょっと助けてえか。
 声をかけてきた老婆は、狭い路地と西側の駐車場との仕切りにと張ってある針金をつかんで、ようよう立っているようなありさまだった。
 ──息子がなあ、帰ってきませんのさ。あの車の中で胸が痛い言うて。
 話を要約すると、息子さんがその駐車場の車の中にいるのだが、胸が痛くて降りられないと婆の携帯に連絡があったらしい。心臓の病だという。
 ──わたしがなあ、どんだけ言うても医者へいきませんのさ。頑固でなあもう。あんたらちょっと車まで行って見てきてくれやんやろか。
 月明かりで老婆の苦悶の起伏が動くのがわかる。足腰はそうとう弱っているらしく、百メートルも離れていないガラガラの駐車場を横切るも大仕事のようだった。
 ──わたしが。わたしが、どにあかん言うても買い物行って胸が痛いて言うて。頑固でなあ。
 加えて老婆の心配事は、自身の体にもあるらしい。聞けば八時半には注射を息子に打ってもらわないといけないという。インスリンとみた。が、もう時間は過ぎている。
 この絵にかいたような人助け。しかもその割には手間も時間もそうはかからない。自分はやることにした。妹も同じだろう。
 呼びかけのために、老婆に名前を聞くと名字を口にし、下の名を「Y言いますのやわ」と続けた。もう頑固な子でなあ。
 Y君。自分はその名に覚えがあった。小、中で同学年の子だ。子といっても、孫がいるような歳だけど。あいつに違いない。とすれば、この婆は、あの人なのか。
 自分は早足で駐車場を横切り、くだんの軽自動車の脇に立つと、ドアをゆっくり開いた。白髪交じりの男が、エンジンをかけたまま、シートを倒して横になり息をしている。自分はフルネームで呼びかけた。フルネームは緊迫感が出る。
 ──どこがあかんの。動けやんか?
 ──大丈夫。
 ──あっちでお母さんが心配しとる。なんなら俺が家までおんぶして行ってもいいよ。
 自分は、氏名を述べ、同級生だったことを告げた。
 頑固な元同級生はこの申し出に反応しなかった。同じく地区で同級だったT君、H君の名前を出しても、ああ、ああ、とつぶやくくらいで、そりゃ、心臓のほうがたいへんで、相手してなぞいられないか。
 だいぶ楽になったからもう少し休めば動ける。汗が引いてきたから大丈夫だ。お袋には家に入るように言ってくれないか。そんな意味のことをY君は言った。
 さて、自分は当然ながら、あのことを思い出している。
 思い出したというより、いまだに付きまとう記憶にY君がからんでいるという構図であって、彼に申しわけないという気持ちとはちょっと違っていた。

 半世紀以上も前、小学校二年生の冬、自分はクラスである事件を起こして、先生から母宛てに手紙をことづけられたことがあった。

 「先生、ひろゆき君がえらいことしたに」と、クラスの女子が職員室に駆け込んできました──。

 手紙はそんな書き出しだった。
 自分はその日、買ってもらったばかりのハサミを筆箱に入れていた。よく切れるハサミで、家じゅうの者には、切れる切れると感心されていた。
 ところが、そんな評判も、一歩外に出るとあやしくなる。「なんでも切れるよ」と主張する自分に、「切れないものもある」と同級の男児が立ちふさがる。不愉快だった。
 同じクラスのY君は、とくにやんちゃな子、というわけでもなかったが、この「切れないものもある」という意見には、いたく傾いていたようだった。
 三時間目の始まる十分前、切れる、切れない、あ、やっぱり切れた、との声がやかましく交差する中で、Y君は自分の着ていたセーターの裾をつまんでみせた。
 ──そんならこれが切れるか。
 稲の苗のような勢いのある緑色をしていた。
 自分は断りもなく、その裾より少し上をつまみ直し、引っ張って出来たとんがり部分の根本を、二センチばかり切った。ハサミを持つ右手に、ざりっという手ごたえがあった。
 とたんにY君は、あああ、とか叫んで後ずさりし、周りの女子たちの悲鳴の中で泣き出した。
 左手の指に残った切れ端の形は覚えていない。どのみち相手のものだから返すのが当然なので、泣き続けるY君に「はい」といって渡した。
 世の中には、黒板の上で習ったようには、いかないこともある。「100」と「99+1」が等価とは限らない。1を失って生まれた99は、独自の道を歩みはじめる。切れ端は穴を塞いではいるのだが、緑色のセーターは「99+1」のままだった。
 担任のA先生は自分を叱ったりはしなかった。自分は動揺したのかどうか覚えていない。そのあと午前の授業を過ごし、給食を摂り、いつものように下校した。先生が渡してきた例の手紙をランドセルに入れて。
 手紙を最後まで読んだ母は、お前に仕付けていなかったことがある、だから今回は叱ったりしない──というような意味のことを言った。切れと言われても切ってはいけないこともあるんや、と。
 世の中には、二重の意味で、切れないものがあるということを、そのとき知った。結婚してから嫁にこの話をしたら、「小二やろ? そらアホやで」と言われて悲しかった。
 晩ごはんのあと、Y君の母親がやって来た。別に怒ってもいなくて、先生の指示に従っているように見えた。Y君の兄がクラスでいじめられているなど、同じ話を何度も繰り返す人だった。
 母は預かった穴の開いた緑色のセーターをほどいて、ブラザーの家庭用編み機で編み直すことで弁償としたようだった。編みながら息子の目を見てすごんだ。──よう見とけよ、切るのはいっぺんでも直すのはえらいことやで──。母はまだ三十一だった。

 さて──。Y君は、頑として「助け」を受け付けない。お母さんがあんなに言っているのに。同級生だったのに。あんなことはしたけれども。いまだ許されないのか。
 自分は無体にも、少し腹立ちを覚えながらその場を後にして、元の場所を動かないでいる婆に歩み寄った。
 事情を話し、あそこが家だと指さす明かりのついた草ぼうぼうの玄関までの百歩ほどの道のりを、妹とふたりで両脇を支えながら帰した。
 自分はいいことをした。そんな感情はちっとも湧いてこなかった。
 
 ──大丈夫かな。死んだりせんやろな。
 ウォーキングを再開し、となりを歩く妹に問いかけてみたが、もっともな返事だった。
 ──わたしにわかるわけないやん。
 
 あの老婆は、どのみち近いうちに死ぬだろう。
 それは母も同じだ。
 ──あんたら、ちょっと助けてえ。
 もういちどチャンスを与えてほしいと思った。
 自分勝手は、いまだ消えない。
作品名:事件なんかいらない 作家名:中川 京人