Crank
『けいちゃんのお母さん、今も店に来るんだ……』
その後に続く言葉は、全く想像できなかった。ただ店が忙しく、変なことを気にするんだなと思っただけだった。
『ボウリングに顔出してから帰るわ』
そう言い残した勝矢が川に落ちて死んだのは、高校二年生のときだ。通夜の日は、食いしばりすぎた奥歯が真っ二つに割れた。光洋は私の感情を受け止める器に徹した。その岩のように揺らがなかった態度には、今でも感謝している。あの器がなければ、私はおそらくこの世にいない。
そして、こうして地元に残り続けているのは、その日から伸びる鎖でぐるぐる巻きになっているからとも言える。
「骨か。おれもそろそろ引退かな」
光洋が言い、私は苦笑いを浮かべた。
「寂しいこと言わないでよ」
勝矢を失って、私たちの関係は大きく変わった。言葉遊びも、何もかも。光洋は時折夜にふらりと家を出て行くようになり、何を考えているのか分からなくなったし、分かりたいとも思わなくなった。ただ、商店街の人間がお悔みを言ってくれる度に応えなければならないから、そのために店のシャッターを開けていただけだった。
光洋の考えが分かったのは、勝矢の二周忌が近づいていたときだった。川の向かいに建つ工場に出入りしていて、夜勤の人間と仲良くなっていた。光洋はずっと、目撃者を探していたのだ。
『複数人いたらしい。ひとりが川に手を伸ばして、何かを取ろうとしてたのを見たと』
私は、ほとんど誰か分からなくなってしまったような光洋の表情を、今でも覚えている。自分の人格を全て封じて、先に進むことも後に戻ることもやめた人間。私も同じような顔をしていたに違いない。
私は、壁にかかった時計を見上げた。午後三時。あと十五分ぐらいすると、河内眼鏡店の奥さんがコンビーフを買いに来る。光洋も同じことを考えているみたいで、河内さんの長い世間話に今から覚悟を決めたように、唇を結んだ。
「骨かあ。どうして混ざったのかな」
光洋は首を傾げた。刻まれたしわの中にはまだ、あの日の顔が隠れている。
『勝矢は友達と言ってたけど、違ったのかもしれない』
工場にいた人間の目には、使い走りのように見えたらしい。一回ではなく、何度も川に手を伸ばして度胸試しのようなことをさせられていたと。ひとりが制服を着ていて、その高校の名前はすぐに分かった。そして、野木さんが店にやってきたときに、どうして勝矢が驚いていたのかも。私は気づけなかった。子供同士の付き合いと、大人同士の付き合いは全く別物だ。
あの時点で、勝矢は野木敬太と友達ではなかったのだ。
「まだ、時間があるな」
光洋が時計を見上げて、呟いた。『配達中』の札を立てて、私は加工場へ入った。後ろ手に鉄製の扉を閉めた光洋が電気を点けて、言った。
「クレームだ」
光洋は、勝矢の二周忌が終わったとき、言ったのだ。
『今は待て』
あれは、私の言葉に対する返事だった。なんて言ったのかは何故か覚えていないけど、想像はつく。そして、光洋の言葉だけは一字一句覚えている。
『約束するよ。おれは絶対に目を離さない。そのときは、絶対に来る』
けいちゃんは逃げるように遠方の大学に進学して、そのまま帰ってこなかった。広告代理店に就職し、一度結婚寸前までいったが別れ、三十歳で事業を始めた。去年負債を抱えたまま、蒸発。母親以外、誰も探さなくなるまで堕ちた、どうしようもない人間。
そうなるのを、待っていた。私は言った。
「ちょっと、刃が当たったんじゃないの?」
「あー、ほんとだな。それにしても野木家は合い挽きが好きだな」
そう言うと、光洋は骨の断面を見ながら続けた。
「まあ、少しずつ、元の場所に戻ってるんだ。母親からすれば、幸せなことだろ」
けいちゃんは、去年の冬に加工場へ運び込まれてから、半年近く生きている。私たちの世話を受けて、野木さんが買っていく合い挽きに少しずつ吸収されながら。
先週で、右腕の肘から先は完全になくなった。
その足が痙攣したように跳ねて目を覚ましたとき、私は言った。
「骨が混ざってたって、クレームが来たわ」
歯と舌を抜かれた口が開き、唸り声が漏れた。何て言っているのか、私には分かる。
『殺してくれ』と言っているのだ。野木の人間は、皆そうだ。自分の都合ばかり、ぺらぺらとよく喋る。しかしその望みは、しばらくは叶えられそうにない。
「すぐには無理」
私はそう言うと、愛想笑いを作った。だいたい、他人が命を絶ってくれるなんて、そんな楽で虫のいい話はない。光洋には悪いけど、そんなことが叶うなら真っ先に名乗り出て、勝矢と再会したい。
「人はいつか死ぬわ。でも……」
まっさらな左腕にマーカーを引きながら、私は言った。
「生きていないと、苦しめないでしょ」